曖昧な言葉を探すくらいだから、どうもアタシは、よく判らない状態も、はっきりと発言なり行動なりをしない人も苦手なのだと思う。
その事に気付いたのは高校生の時だった。
いつもならば、放課後もおしゃべりをしていたクラスメートが、そそくさと帰り仕度をしていた。
どっか行くの?と訊いたら、
「まあね」と返事が返ってきた。
まあねとは何だろうと、嫌な気分になったのだ。
またある時、物憂げにしていたクラスメートに、どうかしたの?と訊いたら、
「ちょっとね」ときた。
一体、人に声をかけられて、まあねとか、ちょっとねとはどういう神経の持ち主なのだろう。
失礼きわまりないではないか。
こういう場合は、たいした所へ行くわけではなく、物憂げにしているのも、大きな悩みなど無いのだ。
どうしても言えない、答えられない事など、人生にはそれほど多くはないのだ。
この手の曖昧さで、直球をかわそうとする人が増えている。
特に近年、目の前に会話している相手が居るにも関わらず、「な~んか最近違和感があるんだよねぇ~」「モヤモヤするんだよね~」と、一人言のように呟く輩が増えた。
人の目を見ないのだ。
驚く事に、「これはひとり言ですから…」と、前置きして話し出す人まで居るのだ。
察して下さいよと、言わんばかりだ。
こういうのをズルいと言うのだ。
相手の反応を見て、共感が無ければ言わなかった事にし、逃げ道を作っている。
同じような気持ちの人が察して、代弁してくれるのを待っている。
あくまでも、当事者にはなりたくないわけだ。
察してやる暇など無いから、立ち去る事にしている。
アタシの頭の中は多忙なのだ。
外野で在り続けたい人に付き合っている暇はない。
第一、馬鹿馬鹿しいではないか。
この手の人々を、ガイヤジンと名付けている。
ガイヤジンは、己の人生ですら、主役にはなれないであろう。
華々しく素晴らしい主役ではなかったとしても、大した戯曲ではなかろうとも、 自分の人生の主役は己自身が努めきるしかないのだ。
何がしかの台詞を吐かねば幕は上がらない。
台詞を吐かないのならば、パントマイムだって良い。行動で示す力量があればの話しだ。
誰に向かっての疑問符なのかは判らないが、ガイヤジンのため息で窒息するのだけはごめん被りたいと思っている。
*ガイヤジンの見極め方はとても簡単ですので、知りたい方はメールでお問い合わせクダサイマシ。
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