むーめーじんの掲載を始めたのは、2014年の初めからだったから、もう3年以上だ。
ほんの30分程の散歩の時間に、全く見ず知らずの人が、声をかけて下さる。
その事だけでも、不思議なご縁だと思うが、お互いに何も知らない状態にあって、会話が成立するわけだから、人同士の繋がりというものは少しの勇気や好奇心から始まると言っても過言ではないと思う。
それきりすれ違う事も無い人もいれば、挨拶を交わし、会えば立ち話をするようになった人も沢山居る。
未だ登場には至らずとも、なんとなく微笑みあったり、会釈をする人もいて、いずれ機会が巡ってきたら、何かを話すことになるかもしれないなと、ある種の予感のようなものを感じるむーめーじんも多い。
むーめーじん達との出合いには、その人の背景は関係が無いのだ。
どこに勤めているとか、住まいとか、家族の有無も関係が無い。
あくまでも、個人対個人だ。
会話のきっかけは、急に降りだした雨であったり、道をたずねられる事であったりする。
これも予期出来ない。
その瞬間に、何か共有できる事柄や景色さえあれば、様々な人との接点が繋がって行く。
声をかけられたら、拒まない。
拒む理由が無いからだ。
しかし、世の中には、このような小さな接点を繋げない人も居るようだ。
あの人はあーだからこーだからと枠に嵌め込んで、然るに、会話すべきではなく、そもそも会話が成立するはずは無いと拒む。
そのような人々は、個という存在を蔑ろに考えているのではないかと思う。
今日も、溜まり場で、働く人々が楽しそうに会話し、励まし合っていた。
佐川急便、クロネコヤマト、西濃運輸などの人々だ。
競争する組織に属し、異なる作業着を着ているが、彼らはいつも屈託無く会話している。
この過酷な夏の屋外で、汗水流して、同じエリア内で荷物を運び続けるという共通点があるからだ。
企業同士は競争相手だが、彼らはそうは思っていない。
熱中症に気を付けながら頑張ろうと励ましあっている。
あっちは留守だとか、こっちは今なら在宅だぞと、お互いの仕事がスムーズに捗るような情報交換もしている。
ベットボトルの飲み物を奢り合ったりしている様子は、見ていて微笑ましい。
「皆な結構仲が良いんだね」と話しかけたら、
仲間だからと返ってきた。
俺らは運び屋情報屋、皆な仲間なんだと。
アタシも、人を枠に嵌める事をしないし、枠に嵌められる事も嫌いだ。
同じ人間同士じゃないかと心を開いていたいと思っている。
ヤドリギのオトウとSちゃんとの交流もそうだ。
家に拘る多くの人々は、娘や息子の結婚相手の親同士というだけで、一線を引く。
仇同士のように、あらを探しあって、無用な緊張感に縛られている人が非常に多い。
敵意の境界線に何の意味があろう。
分断からはろくなものは生まれない。
些細なきっかけであろうと、心を開いて接点を持てば、そこからは優しさという気持ちが生れる。
枠や線などの括りは、少ない方が良いに決まっていると信じている。
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