2017年8月23日水曜日
鍵
Tの姉の事を書き留めておこうと思う。
初めてお会いしたのは、アタシが19歳であったから、今から36年前だ。
Tの帰省に同行して、同棲を始める報告に伺った。
その頃、義姉は20代の半ばで、既に精神病院に入院していた。
挨拶を兼ねて、面会に行く事になった。
義姉は、短大を卒業した後に結婚したが、3ヶ月で戻って来たのだそうだ。
不定形精神病との事だったが、後に精神分裂病と診断された。
今は統合失調症と呼ばれている。
当時は、今のようにメンタルクリニック、心療内科という医療機関は見当たらず、精神病院だった。
中学校の近くにあった精神病院は、全ての窓に鉄格子が嵌め込まれていたから、一般の病院とは違うのだと思っていた。
入院している人を想像することも怖かった。
狂人を想い浮かべていた。
義父は、サイダーと生卵を1つ袋に入れていた。
そして、自転車で病院へ向かった。
やはり窓には鉄格子がはめられており、面会室のドアは施錠されていた。
病室への立ち入りは禁止で、簡素なテーブルを挟んだ部屋だった。
義姉が来ると、義父は、持ってきたコップに生卵を割り入れて、そこにサイダーを注いだ。
それを義姉は一気に飲み干した。
初対面の挨拶をしたのだが、そこからは殆ど義姉だけが喋り続けていた。
その日は、外出許可をもらって、一泊だけ帰宅する事になったのだ。
Tは同級生と遊びに行ってしまい、義父は寡黙であったから、義姉の話し相手はアタシに集中した。
絶え間なく身体を前後に揺すりながら、壁をノコギリで切る人が居る事、玄関先で悪口を叫ぶ人の事、燐家の犬が見張っていること、そして、ある歌謡曲の歌詞が、自分の事を書いたものだという事などを、ずっと話し続けていた。
滞在中の炊事はアタシに任されていた。
作る物すべてにダメ出しがあった。
何もかもが違うらしい。 東京ではこんな感じですよと言っても、全く通じない。
散歩に出たいというので、一緒に外出したのだが、義姉は、あろうことか、線路に入り込み、そこに拾った石を並べだした。
なんとか説得して、石を除けて、早々に帰宅したのである。
病院へ帰った翌日、主治医から話が合った。
遺伝はしないから大丈夫ですよと言われた。
そのような事まで考えてはいなかったから、アタシは少し驚いた。
結婚後も数回会ったのだが、義姉の話は、別の世界の事を語っていて、どうにも返事のしようがない事ばかりだった。
それからずっと、義姉からの手紙が届くようになったのである。
内容は、欲しい物が列記されていて、時にはアタシに対して攻撃的な内容だった。
離婚をして、その手紙からは解放されたのだが、今でも手紙はT宛に届く。
中には必ずアタシの事も書かれていて、そのアタシに対する嫌悪の内容は今も変わらないのである。
尋常と異常、そして、冷静、沈着が一般だとしたら、義姉の心は、狂の世界を彷徨っているようだ。その間には重い扉があり、鍵が閉められている。
こちら側へ戻る鍵はみつからないまま、既に60を超えた。
発病の一因にはストレスもあるようだが、実際に発病してしまうと、妄想、幻覚、幻聴がどんなに恐ろしいものであっても、その事は身体に影響を及ぼすようなストレスにはならないらしい。
あくまでも、別世界で受けるストレスで、それは架空のストレスなのだそうだ。
体調に異変を来すようなストレスがある場合、それは、まだ尋常の世界の住人だと言う事で、冷静沈着を取り戻すチャンスがある。
何かのきっかけで境界の鍵が開けられて、ドアの向こうに行ってしまうと、薬物治療などでも、戻ってくることは難しいようだ。
科学、医学は、この鍵を探しているという事なのだろう。
*画像は私物の南京錠。
以前にコレクションしていた物です。
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