2017年8月31日木曜日

自分なりという曖昧

人は、随分と歳を重ねたとしても、実はまだまだひよこ、つまり雛なのではないかと、そんな事を思っている。

若い頃に立った舞台で、1週間の公演が千秋楽となった。

打ち上げの席で、普段は話す機会も無かった照明スタッフのチーフが、隣に来て飲み始めた。
白髪頭の高齢の方だった。
「おまえにはプロ意識があるか?」

一升瓶片手にグビグビと日本酒を飲みながら、徹底的に扱き下ろされた。

あんまり言われっぱなしだったものだから、頭に血がのぼって「私なりに精一杯努めているつもりです!」と応えた。

すると沈黙が流れ、チーフは、一升瓶を空にして眠り始めた。

お開きになって席を立つと、寝ていたはずのチーフが起き出して
「私なりにじゃ駄目なんだよ。精一杯やったかどうかは、お前が決める事じゃない。そんな事じゃ、何千円のチケットを買って観に来た客に失礼だ。本物の拍手を貰えるまでやれ。」

悔しい気持ちになったが、言い返せなかったのである。

舞台の世界からは退いてしまったが、それからアタシは 自分なりに頑張った と言わないようになった。
自分の自分なりにが、全く言い訳がましく不確かなものに感じられたからだ。そうして、精一杯努めたかどうかさえ、怪しいものだと思うようになった。

結果を評価するのは、自分ではない。

周囲で仕事が出来る人は、淡々と結果を出し、自分の殻を打ち破り、さらにまた結果を積み重ねている。
評価されても安住する事なく、また殻を破って結果を出す。

新しい自分を生み出し続け、殻を破ればまた雛だ。

何の結果も出していない人の方が、自分なりに頑張っていると口にする事が多いと感じる。

いくら親鶏が温めても、
殻を破って孵化する力が無ければ、卵のまま終わる。

自分なりという曖昧さの殻を打ち破り、果てし無い空を見上げる。

翔ぼうとする姿は力強く美しい。

人生はこの繰り返しだ。

自分なりという曖昧な殻に閉じ籠ったままの卵には、空の果てしなささえも見えないのである。

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空いてるトップス

買い物帰りにカフェに寄ろうとしたら、どこも待ち人だらけ。 西武百貨店のトップスは、大抵空いてるし、安心の美味しさだね。 一瞬、季節限定のマロンケーキに心が動いたけれど、定番のチーズケーキにしました。 チーズケーキは酸味強めが好き。