ラベル 思い出 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 思い出 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年12月29日火曜日

カッチャンの思い出

生まれ育った五月荘アパートは、1階と2階を合わせて8世帯。一時は、そのうちの半数が子供のいる世帯でした。2階の階段から三つ目の部屋にカッチャンは住んでいました。幼馴染みのJちゃんちには弟がいて、うちは3人、カッチャンは一人っ子でした。総勢6人でよく遊んだもので、ガキ大将は兄でした。兄がコブラ1号と名付けた自転車で行動範囲を拡げるようになってから、アタシとJちゃんとカッチャンの3人で遊ぶ事が増えました。カッチャンはアタシ達より1つだけ年下で、髪が柔らかい茶色だったうえに天然パーマで色白だったので、キューピーにそっくり瓜二つでした。髪はカッチャンのお母さんも同じで、お父さんはどうなんだろうといつも知りたかったけれど、何故かカッチャンのお父さんには会った事がありませんでした。 カッチャンは男の子だったけれど、とてもおとなしくて何でも言うことをききました。 その頃、アタシは玩具のお医者さんセットを持っていました。プラスチックのトランク型ケースの中には、聴診器、注射器、絆創膏にガーゼな
ど一通りの物が入っていました。 アタシとJちゃんがお医者さんごっこをする時の患者さんは、必ずカッチャンでした。アタシがお医者さんでJちゃんは看護婦さんです。 診察室は、2階に昇る階段の真下になった空間で、そこは貯水タンクが設置されていましたが、金網で出来たドアはいつも開けっぱなしだったから出入り自由だったのです。 おままごとに使うゴザやタオルを敷き詰めると、そこは診察室に早変わりしました。 Jちゃんが「次の方お入りくださーい」と言うと、カッチャンは教えた通りにドアを開けて中に入って来ました。「どうしましたか?」とお医者さんになりきったアタシが聞くと、カッチャンは「」風邪をひいてお腹も痛いです」と言うような台詞を言いました。
そんなふうに、時折お医者さんごっこを楽しんでいたのに、暮れも押し迫った寒い冬に、カッチャンは小さなトラックに乗って引っ越して行きました。
手を振ったけれど、車の中のカッチャンは、チラリとアタシを見ただけでした。
カッチャンはお母さんと二人暮らしで、お父さんはいないと知りました。カッチャンのお母さんは、たまに立ち寄る食品街の中の佃煮屋さんで、白いエプロンを着て働いていました。引っ越してからも時々見掛けたけれど、母が「話しかけちゃダメだよ。カッチャンのお母さんは大変なんだから。」と言っていました。
アタシが、カッチャンもカッチャンのお母さんも、どんなに大変だったかを想像出来るようになったのは、大人になってからの事です。 キューピーさんは男の子だと思っているのは、カッチャンの思い出があるからです。

2015年9月7日月曜日

Uの思い出

それはたしか、アタシが小学校の1年生の頃だったと思います。 幼稚園の時にはスモッグのような制服がありましたが、小学校は毎日私服でしたので、翌朝に着るものは枕元に準備しておく事になっていました。
アタシに割り当てられていたのは、洋服タンスの下にあった二段の引き出しの1つでした。 秋も深まる季節になると、トックリのセーターやウールのジャンパースカート等に衣替えされていました。 迷うほど衣装持ちではありませんでしたけれど、組み合わせがおかしいと、「そのスカートには白いタイツでしょ?」と、母から言われてしまうので、毎日慎重に選んでいました。
アタシの亡母は、親友のOさんのお宅で洋裁を習っていました。
ある日の事、学校から帰宅したアタシに、母が言いました。
「ほら、これを作ったから明日着ていきなさいよ。ね。名前の頭文字が付いてて可愛いでしょ?」渡されたのは、少しオレンジが混じったような薄いピンクのジャンパースカートでした。きれいな色でした。左右にポケットもついていて、左側のポケットには、赤いアップリケと小さな黄色のアヒルが刺繍されていました。アップリケはUのアルファベットでした。
アタシは、このジャンパースカートに白のトックリセーターを合わせるのが好きでした。ふんわりと柔らかい着心地も気に入っていました。
そんなある日、クラスで学級委員をしていた女の子に言われたのです。 「名前の頭文字だったらYだよ。Uじゃないよ。」
それは衝撃的な言葉でした。ゆ で始まるアタシの名前の頭文字がUじゃない!
ローマ字を学習したのが何歳だったか覚えていませんが、アタシはその間違えについて、母に聞くことが出来ませんでした。
何故ならば、亡母は常日頃から 「学校の先生が何度も親に頼みに来てくれたけど、貧乏だったから高校には行かせてもらえなくてさ…ゴムの工場に働きに行ったのよ。そこで鼻を悪くして、仕方がないから映画館で切符を売る仕事に替わってさ…」
同級生と一緒に高校へ進学したかったはずの母でしたから、アタシは頭文字の事を言いませんでした。
文字が違っている事を知った後でも、アタシはこのジャンパースカートが大好きでした。 はるか昔、40数年前のUの思い出です。

2015年8月1日土曜日

ヤマザキのおばさんの思い出

アタシが一人で出歩くようになったのは、幼稚園に通い出す頃からだったと思います。3月の早生まれですので、3才のおしまい頃には、徒歩数分の圏内を遊び回っていた事になります。
当時は、近所の商店街に乾物屋さんだとかお肉屋さん、八百屋さんなどが並んでいて、周辺の主婦は、買い物篭を持ってお使いをしていました。 食卓に並ぶ物は、切り干し大根やヒジキの煮物など、本当に質素でした。 冬は蒸かしたお芋とミカンが定番のおやつでした。夏場は、甘い麦茶か頂き物のカルピスが冷蔵庫に入っていました。薄い緑色の大きな缶があって、そこにはお煎餅かかりん糖等が入っていました。 冷蔵庫はワンドアの小振りな物で、ドアを開けると、一番上に製氷室がありました。冷凍庫付きの冷蔵庫に買い替えたのは、引っ越しをした11歳の時です。
駅とは反対方向の狭い道を数分歩いた所にお菓子屋さんがありました。 袋に入ったジャムパンやクリームパン、お煎餅などの他にも、ビスケットや麩菓子などが並んでいました。ヤマザキさんというお店です。 ヤマザキさんのお店の隣は駐車場になっていて、その奥に戸建てのお家がありました。ヤマザキさんのお家には、アタシと同じ歳の女の子が居ましたが、違う幼稚園に通っていたので、一緒に遊ぶことはありませんでした。 あの子はきっと毎日、お店にあるお菓子を食べさせてもらえるんだろうなぁと、アタシはとても羨ましく思っていました。ヤマザキさんのお店の入り口左側に、アイスクリームが入った冷凍ボックスが置いてありました。現在使われている冷凍ボックスと同じように、上にあるガラスを引いて、中から好きなアイスクリームを取るようになっていました。通園の行き帰りに、冷凍ボックスからアイスクリームを取り出している人を見かけると、アタシはたまに貰える棒付きアイス ホームランバーが食べたくなりました。 ホームラ
ンバーは、アイスを食べ終わると、棒にアタリかハズレの文字が書いてあって、アタリだったらもう1本の新しいホームランバーが貰えるのです。いつもハズレでしたが、美味しさとワクワクした気持ちを同時に味わえるから大好きでした。でも、体が小さかったアタシには、アイスクリームボックスの中を覗く事は出来ませんでした。自分であれこれと選びたかったし、他にどんなアイスクリームが入っているのかも自分の目で見てみたかったのに。
幼稚園の年長組に進級した頃、アタシは少し身長が伸びていました。そして、背伸びをすれば、アイスクリームボックスの中を覗く事が出来るようになっていました。園から帰っても、小学生になった兄はまだ帰宅していなくて、幼馴染みのJちゃんとも遊べない日には、アタシは一人でドングリがいっぱい拾えるドングリ道の方へ探険に出掛けて、藪の中をくぐり抜けたりして、それからヤマザキさんのお店に行くようになりました。背伸びをしてアイスクリームボックスの蓋を開けて、ホームランバーを1本取り出して、必ずキチンとガラスを閉めてから、もと来たドングリ道を歩きながら、ホームランバーを食べました。ハズレと書かれた棒は、竹藪の根元に埋めました。 そんなある日、いつものようにホームランバーを取り出して帰ろうとした時に、お店の中からヤマザキさんのおばさんが出て来ました。ヤマザキさんのおばさんは、白いエプロンを掛けていて、頭にはやはり白い三角巾を結んでいました。おばさんはアタシの前に屈んで、とても柔らかい声で言いました。「今日も
暑いね。アイスクリームが食べたくなるね。」 アタシはコクンと頷きました。「あのね、このアイスクリームはね、お店にある他のお菓子とおんなじでね、食べたい時には30円で買わなくちゃだめなの。わかる?」 アタシは頭の中が真っ白になりました。ヤマザキさんのおばさんは、ずっと柔らかい声でしたが、アタシは何を言われても頷くか首を横に振るばかりでした。 玩具のお札や小銭を使ってお店屋さんごっこをして遊んだりはしていましたが、その頃のアタシには、全ての物は買うときにお金と引き替えだというような認識が無かったのです。買う物もあれば、貰える物もあり、ヤマザキさんの店先のアイスクリームのように、自分で選んで持って行っても良い物もあると思っていました。 ヤマザキさんのおばさんは、「そのアイスクリームは、おばちゃんちに遊びに来てくれたから、おやつにあげるね。少しお家の中で遊んで行きなね」 アタシは、手を引かれて、初めてヤマザキさんのお家に入りました。靴を脱いで廊下を歩いた右側のお部屋に
、ピアノが置いてありました。そして、オカッパ頭の女の子が座っていました。アタシはその子とホームランバーを食べて、多分、何かの話をして、奥のお部屋も見せてもらったと記憶していますが、よく覚えていません。 その日から何度かお家に上げてもらいましたが、女の子の名前も覚えていないのです。 夏休みが終わりに近づいた頃の事です。 母がアタシに言いました。「お菓子屋さんのおばさん死んじゃったんだって。遊びに行った時どうだった?変じゃなかった?」
急死してしまったヤマザキさんのおばさんの事は、近所でも皆が驚き、顔色が悪かったとか、影が薄かった等の噂が流れたようでした。母はアタシに、何度も、おばさんの影があったかどうかを聞きましたので、アタシは影が無かったと答えました。 本当はそんな事は判りませんでしたけれど。
ホームランバーを、30円払わずに取り出して食べていた事について、アタシは母からも誰からも叱られる事はありませんでした。今にして思いますと、おばちゃんは、アタシが数度にわたってホームランバーを持って行った事を知っていたはずですが、その事を誰にも言わずにいてくれたのだと思います。おこづかいを貰える年齢になっても、アタシは、ヤマザキさんのお店に行くことはありませんでした。もうおばさんは居なかったから。おばさんが元気でお店で働いていたとしたら、おこづかいの中から30円を握りしめて、ちゃんとホームランバーを買いたかったと思います。影が無かったと答えた事に、小さな後悔が残っています。
お菓子屋さんの看板に、大きな字でヤマザキパンと書かれていましたので、アタシはヤマザキさんのおばちゃんと思っていましたが、おばちゃんの本名は判らないまんまです。

2015年6月24日水曜日

髪結いさんの思い出

アタシガ初めて、母ではなくて、美容師さんに髪を切ってもらったのがいつかは記憶に無いのですが、まだ小学校の低学年だった当時、母は、美容院とは言わずに、かみーさん(髪結いさん)に行って来るわと言っていたような気がします。
そのかみーさんは、駅から続く商店街のおしまいの辺りにあって、入り口を入ったら、スリッパに履き替える事になっていました。自宅を兼ねている様子で、何席か並んだ椅子の後ろが引き戸になっていて、その奥に畳の部屋が見えました。
かみーさんは女性でした。 父兄会のような学校行事がある前日ですとか、何かある時に行くのがかみーさんでしたので、アタシは特別な場所だと認識していました。 母についていくと、頭にえんじ色の筒型の物をいっぱい巻き付けて、それから暫くの間は頭がスッポリと隠れてしまうほどの大きさの機械を被って上から温めて、それから筒型の物を外すと、母の髪はくるくるになっていました。サザエさんみたいに。
それは確か土曜日の事です。母は「いつも行くかみーさんまで一人で行けるでしょう?明日の朝8時に行きなさい。ちゃんと伝えてあるから。」と言いました。 アタシは翌日の朝、ブラウスやらカーディガンを重ね着させられて、一人でかみーさんに向かいました。 おそるおそるドアを開けると、いつものおばさんがニコニコと迎えてくれて、「今日はね、特別な日だから、おばちゃんがきれいに髪を結ってあげるからね。」と言って、いつも母が座る椅子に四角い台を乗せて、そこにアタシを座らせてくれました。
アタシは、あのえんじ色のを頭にいっぱい巻かれるのだと思っていましたが、そうではなくて、かみーさんのおばさんは、ストーブに乗せた棒のような物で、アタシの髪を何回にも分けて巻いていきました。(コテですね)少し焦げたような臭いがして、アタシは怖くなりましたが、髪はくるくるになりました。それから、かみーさんのおばさんは、先が尖った櫛を使って、更には、髪の毛の塊みたいなもの(かもじ)を丸めたりして、アタシの頭を、時代劇に出て来る昔の子供のように膨らませて行きました。その作業をやりながら、かみーさんは、「おばちゃんね、若い頃に住み込みでこの仕事を覚えたの。住み込みって解る?先生のお家に住んで、家事もお手伝いするの。皆をきれいにしてあげる仕事だから大好きなんだけどね、おばちゃんが一人前になって、このお店を出したらね、結婚したおじさんは働かない人になっちゃって、いつも2階で寝てるんだよ。」 というような内容の話をしてくれました。 その話は子供心にも結構面白かったと記憶して
います。
髪が時代劇になった頃に、母がやって来ました。 アタシは奥の部屋に連れて行かれました。かみーさんのおばさんは、畳に正座して、「これからおばちゃん、お着物をお着せするね。宜しくお願いします。」と言って、おでこが畳につくくらいに深くお辞儀をしたのです。アタシはとても驚きました。 母に、「宜しくお願いしますでしょ!!」と言われ、アタシも慌ててお辞儀をしました。
それからアタシは、何本もの紐や小道具を使って、着物を着せていただきました。水色の地に、小さな蝶々が舞っている着物に、主赤の帯でした。それがアタシの七五三、七歳のお祝いの日の出来事でした。
恥ずかしいような誇らしいような、不思議な気持ちでした。 慣れない草履を履いてアパートに戻りましたら、父がアタシを見て言いました。「馬子にも衣装だな。カラスがアホーアホーって笑ってら。」と。空のカラスを見上げながら、アタシはちょっと傷つきましたが、今思い返しますと、父らしい発言だったと感じます。 子供のアタシに、丁寧な挨拶をしてくださったかみーさんの事は一生忘れません。 今は、アタシがお着物をお着せする仕事もするようになったわけですが、 きちんと丁寧にお着付けして差し上げなければと毎回思います。それは、大人だけではなくて、小さなお子さんでも、晴れの日は大切にしてあげたいという気持ちからです。かみーさんのおばさんは、着物や帯だけではなくて、小物や髪飾り等も、とても丁寧に扱っていました。
アタシは、トイレに行きたいと言えなかった為に、水色の晴れ着は悲惨な結果となりましたが、大人になってから洗い張りをして、暫くは長襦袢として愛用していました。
大小姉さん達の晴れ着も、大切に保管しています。

2015年6月6日土曜日

小池先輩の思い出

アタシは小学校の6年生で、隣の席になった男の子がとても好きになって、担任の先生に「卒業まで席替えをしないで下さい!」と直談判に言ったら、なんとすんなり認められて、初デートは徒歩圏にあったスケートリンクでした。
一緒にウイスキーボンボンを食べながら
スケートを楽しんだのですが、好きになった理由は、水泳の競技大会で、水しぶき1つあげずに飛び込む姿があまりにも美しかったからです。何でその男子生徒が、半年間も席替えをしない事に抗議をしなかったのかは、未だに不思議です。何故なら、その男子生徒は、決してアタシを好きな訳ではなさそうでしたから。
15歳で中学に入ったアタシは、2年上の小池先輩に一目惚れしてしまいました。 色白で小柄で、成績優秀でフォークギターをつま弾いているような優しげな人でした。中学3年にもなると、男子生徒は大人とかわらないくらい背も高くて体格も良く、もうオジサンみたいに見える人も居ましたが、アタシには違和感がありました。 通学路が同じだった事もあり、ある日アタシは、小池先輩に交換日記をして欲しいと頼んでみました。小池先輩は「受験があるから毎日は書けないけど、それでも良かったら。」と言ってくれたのです。 ノートは深緑の表紙で、小池先輩が用意してくれました。 何を書いたのかは全く記憶に無いのですが、アタシは日記を書くと、帰りがけに3年生の下駄箱まで行って、小池先輩の下駄箱の中に入れました。 日記が戻って来るのは、朝の通学の時で、それは毎日ではありませんでしたが、前を歩いている小池先輩が振り返った時にアタシが見えると、日記を通学路途中にあったお宅のブロック塀の上に置いてくれるのです。置かれ
たのが見えたら、アタシは走って行って日記を取り、鞄に入れました。
日記の中身は覚えていなくても、そのやり取りは夢のように楽しかったので、アタシは、学校の成績が悪くても、そんな事は取るに足らない事だと思っていました。
アタシは、小池先輩がどんなにカッコ良くてイカした先輩かをよく母に話しました。
母は「あんたが好きになる男の子って、何でみんな高島屋の人形みたいなのよ。軟弱な男はダメよ。」というような反応でした。
そして、「放課後、小池さん家の塀に昇って、2階の部屋を見上げてるって本当なの?ほどほどにしなさいよ。」と言いました。
アタシは、確かに、何度も小池先輩の家の近くに行きましたし、陽当たりの良さそうな2階の部屋の窓を見上げていました。それは、日記に、2階の部屋が自分の個室だと書かれてあったからです。でも、塀によじ登ってまで眺めた事は無かったので、随分な作り話をする人がいるものだと憤慨していました。
そうこうしているうちに、小池先輩は受験が近づいて、交換日記はいつの間にか終わりになりました。志望校に合格したと聞き、卒業式の日に、学ランのボタンを貰いに行きましたら、「学園祭においで」と言いながらボタンをくれました。
秋になって、アタシは友達と小池先輩の高校の学園祭に行きました。 色白で華奢だった小池先輩は、なんと、ラグビー部に入っていて、真っ黒に日焼けした上に、キン肉マンみたいな別人に変化していました。 アタシは、違っちゃったなぁと思いました。
母にその変化を伝えましたら、愉快そうに笑いました。
フルネームさえ思い出せない30年前の初恋の思い出です。携帯電話など無い時代の事ですが、直筆の交換日記には、現代のメールとは違う楽しさと重みがあったと思います。 追記しておきますと、アタシは今でも、どこか未成熟な雰囲気を持った人に惹かれる傾向があるような気がします。 50過ぎて未成熟!? 高島屋の人形…。 天国で、母が転げ回って笑ってるような気がします。
そう言えば、恋人でも夫婦でも、お互いが向き合っている時間が長いほど相手の欠点が見えて嫌になるのが早くなると聞いた事があります。 長続きの秘訣は、お互いを見るのではなくて、並んで同じ方向を見ながら歩き、向こうに見える景色の話をしたり、同じ星を観ながら「星が綺麗だねぇ」「ほんと。綺麗ね」 ってな感じが良いそう。
もちろん、最初から別の方角を見ていたら、その時点でアウトってことになりますね。
アタシは、星を観ながら 綺麗だな…と呟いている人を、相手には判らない所から観察しているのが好きですので、アウトどころか、論外ってことになりますね。
※思い出は長文になりがちなので軽く書いてみました。

2015年5月22日金曜日

お祖母ちゃんの思い出清編

アタシの母は、産まれて直ぐに里子に出されて育てられたので、母を引き取った育ての親が母方のお祖母ちゃんという事になりますが、そのお祖母ちゃんは、アタシが産まれる少し前に急死してしまいました。 その後すぐに、祖父に後添えさんが来ました。アタシが母方のお祖母ちゃんと呼んでいたのは、この後添えに来たお祖母ちゃんです。 清(きよ)という名前でした。
母方の実家には、祖父と、このお祖母ちゃんの連れ子である当時高校生の息子が居て、三人で暮らしていました。祖父には兄弟姉妹が多く、いつもたくさんの大人や子供が出入りしていました。特にお正月などは、うちの家族、叔母家族、他の叔父や叔母とその子供達も集まりましたので、何台か繋げて並べた座卓の回りを、15人以上の人が囲んでいました。 母の義理の妹は都内に嫁いでいましたので、普段、度々出入りしていたのは、うちの家族でした。
お祖母ちゃんが後添えに入ったいきさつは、大人になってから聞きました。祖父の妹の娘よう子叔母さんに縁談があり、その相手の男性は北海道の出身でした。今で言う親族顔合わせの際に、父親が戦死している事が判りました。お母さんと弟だけになってしまうならば、祖父が独り住まいになっていましたので、いっそのこと、北海道を出て、子連れで後添えに入ったら良かろうという話になり、よう子叔母さんと長男が結婚したと同時に、お祖母ちゃんも次男を連れて祖父の元に嫁いで来たということでした。
お祖母ちゃんには、なにぬねのの発音に、少し訛りがありました。 お祖母ちゃんはとてもよく立ち働く人でした。特に、台所仕事が得意でした。遊びに行くと、大抵、奥のお勝手で何かを作っていました。お勝手の床板が外せるようになっていて、その床下には大きな四斗樽(しとだる)の糠床がありました。アタシはこの糠床の臭いも、それを混ぜるのも好きで、よく手伝わせてもらいました。お祖母ちゃんの糠漬けは最高の味でした。他に、鮭の粕漬けも美味でした。ひと通りの御節料理をいただいた後に、香ばしく焼き上がった鮭の粕漬けでお茶漬けを食べるのは、皆なが楽しみにしていました。昆布とスルメイカが入った松前漬けもとても良い味でした。後添えさんとは言っても、幼かったアタシにとっては、物心ついた時にはお祖母ちゃんが居たので、ずっとそこで暮らして来た人と思っていましたし、周囲の親族と打ち解けて暮らしていました。アタシは、糠床の世話だけではなくて、出汁の取り方や、お魚を粕漬けにする時の味付けや、粕がこびりつかないようにガ
ーゼを使う知恵ですとか、お味噌汁にお味噌を入れるタイミングなど、台所仕事の色々をこのお祖母ちゃんから教わったのです。特に、魚のさばき方や、美味しい切り身の見分け方、昆布の選び方などは、お祖母ちゃんが北海道の出身だった事が大きく影響していると思います。お祖母ちゃんは、アタシ達兄妹をお風呂に入れてくれる事も度々ありました。お祖母ちゃんの背中の、ちょうど肩甲骨辺りに、耳の孔より少し小さい孔があいていて、アタシにはそれが不思議で仕方ありませんでした。「ねぇお祖母ちゃん、どーしてお背中に孔があいてるのぉ?」 と訊ねましたら、お祖母ちゃんは言いました。「お祖母ちゃんの背中にね、鉄砲の玉が当たったの。戦争中に走って逃げてる時にね、背中がカッと熱くなったんだけどね、走り続けたんだよ。とにかく皆が走って逃げたの。」と。「痛くないの?お風呂のお湯が入らない?」と重ねて聞くと、「お湯は入らないよ、今は痛くないんだよ。だけどね、いっぱい怪我をした人がいたから、直ぐにお医者さんに治してもらえなかったの。だか
ら今でも鉄砲の玉は中に入ったまんまなんだよ。戦争は怖いから終わって良かったね。」 お祖母ちゃんは、子供達の身体を石鹸でゴシゴシ洗いながら、そして汗をたくさんかきながら、そんな話を聞かせてくれました。
妹のタコヤキが産まれてから、お祖母ちゃんは妹を大層可愛がるようになりました。泣き虫で人見知りの激しかった妹は、お祖母ちゃんの家から数分の幼稚園に通うことになり、その送り迎えはお祖母ちゃんがやっていました。母からすれば、自分が嫁いでから来たお祖母ちゃんとは暮らした事がなかったわけですが、子育てを手助けしてくれた事で、とても助かっていたようでした。アタシは小学生になり、父方、母方の実家に行くよりも、幼馴染みのJちゃんのお宅に預けられる事が多くなりましたので、お祖母ちゃんに会うのは、お正月と年に2回、お彼岸でお墓参りに行く時くらいになってゆきました。母方のお墓は、今のホテルオークラの近くのお寺にありました。墓石をきれいにして、順番にお花とお線香を供え、子供達も手を合わせて、お祖母ちゃんは一番最後でした。それが済むと、お祖母ちゃんは手桶と花を持って、同じお寺の別のお墓の所へ行き、同じように墓石をきれいにして手を合わせていました。 子供達は、帰り際にお寺さんの奥さんに戴くお菓子が楽しみでした
ので、二つのお墓にお参りすることを気に留めてはいませんでしたが、アタシは、お祖母ちゃんが、二つ目のお墓の前で、長い時間手を合わせていた姿が目に焼き付いています。大人になってから、それは北海道から移して来たお墓で、中には、お祖母ちゃんの戦死した旦那さんが眠っていることを知りました。戦死した旦那さんは軍人さんで、お祖母ちゃんには二人の幼い息子も居たので、国から戦没者の遺族に払われる恩給を受給していたとの事でした。祖父は戦時中、零戦の部品を作る仕事をしていて、戦地には行かずに済んだそうですが、敗戦後は仕事が無くなりました。そのような状況でしたので、アタシの母は、15歳で中学を卒業すると同時に町工場に働きに出て家計を支え、結婚後は、アタシの父が、祖父に貴金属装身具製作の仕事を回して、お給料という形で援助をしていました。 そのうちに、成人して社会人になったお祖母ちゃんの次男にもお嫁さんが来て、母方の実家の庭に離れが建てられ新居となりました。それから何年も平穏な年月が流れましたが、アタシが二十
歳を過ぎて何年かした頃から、お祖母ちゃんに痴呆の症状が出始めたのです。祖父も高齢で病みがちになりました。 お祖母ちゃんの介護をしたのは、離れに居を構えた次男のお嫁さんでした。祖父が亡くなり、その1週間後に、まだ57だったアタシの母が他界しましたので、母方の実家には、痴呆のお祖母ちゃんと、その次男家族だけになりました。お嫁さんは、10年以上の介護で疲れ果てているとの事でしたが、祖父も母も亡くなった後でしたし、お祖母ちゃんの痴呆は悪化して徘徊もひどくなり、部屋に鍵をかけていると聞き、アタシの足は遠退いてしまいました。危篤の報せをうけて病院にお見舞いに行った時には、会話も出来ない状態でした。恩給を受給していた事などの事情で、祖父とお祖母ちゃんは入籍をせず、内縁関係の夫婦だったと知ったのは、お祖母ちゃんの葬儀が終わった後のことです。お祖母ちゃんの遺骨は、長く手を合わせていた方のお墓に納められたと聞いています。
元々は母の実家でしたし、その土地を買うためには、亡母のお給金が使われたので、土地や家の相続で小さな揉め事が起こりました。アタシ達三人兄妹に僅かな相続権が発生したからです。アタシ達三人は、よく解らないまま相続放棄の書類に捺印しました。アタシはその頃から、父方母方、両方の親族と疎遠になって現在に至っています。
第二次世界大戦では、東京大空襲や、広島、長崎への原爆投下の悲惨さを歴史で学ぶ事が多いのですが、終戦の1945年7月、アメリカ軍の3000機にも及ぶ戦闘機が、北海道の室蘭、釧路、根室などに無差別な空襲を行い、それは北海道空襲と呼ばれ、一般市民に多大な被害があったそうです。その空襲の時に、背に銃弾を受けながら、まだ小さかった二人の息子を抱えて逃げ惑った庶民の一人がお祖母ちゃんだったのだと考えますと、お祖母ちゃんの故郷は室蘭、釧路、根室のいずれかだったのではないかと思います。北海道空襲は、アタシが生まれる17年前の出来事です。アタシが知る限り、お祖母ちゃんは北海道に帰った事はありませんでした。 夫が戦死し、自らも負傷し、故郷を離れて見知らぬ土地に移り住むことになるなど、戦後世代のアタシには、その心中を察する事すら出来ません。
50代になった今、戦死した夫の墓前で、何を語りかけながら手を合わせていたのかと考えますと、胸が熱くなる思いと共に、悲しみを口にすることもなく、いつも明るく朗らかに笑いながら、故郷の味を作り私達にふるまってくれた事にあらためて感謝の気持ちが湧いてきます。
アタシは今でも、糠床を大切にしています。床を混ぜる度に、お祖母ちゃんの背中にあった銃弾の傷痕を思い出します。

追記※母を産み落として直ぐに里子に出した、アタシの本当の祖母にあたる人とは、母が亡くなった後に消息を調べ、会うことが出来ました。既に78歳になられていました。数回お会いした後に、また音信が途絶えています。100を越えるお歳ですので、何とか消息を知りたいと思っています。この祖母もまた、戦後未亡人なのです。

2015年5月2日土曜日

楢原先生の思い出

アタシは、産まれてからあまりミルクを飲まなかったらしく、やや栄養失調気味で、毎日ポポンSという液体のビタミン剤をスポイトで口に入れられていました。腹痛を起こす事も度々あって、木製の救急箱の中にはいつもビオフェルミンが入っていて、それを飲むのは家族の中でもアタシが一番多かったと思います。
ポポンSもビオフェルミンも、味が好きだったのが救いでしたが、虚弱のせいなのか、小さい頃から、口内炎で口の中が痛くなる事が何度となくありました。歯茎や上顎、ほっぺたの裏側や舌に出来る口内炎は、とても痛くて、ますます食べる量が減ってしまいます。 口内炎が悪化してくると、母は舌打ちをしながら、「またなの!」と言って、アタシを近くのお医者さんに連れて行きました。物心がついた頃から引っ越しをするまでは、徒歩10分ほどの所にあった 楢原医院が掛かり付けでした。楢原医院のドアを開けると、独特の消毒液のような薬剤の匂いがしました。
大人は緑色のスリッパに履きかえ、子供のスリッパは青でした。
楢原医院の待合室には、身体の中が描かれたグロテスクなポスターなどが貼ってありました。中でも、アタシが何度も顔を近付けて見たのは、便の模型標本が額に並んでいる物でした。 そこには、消化不良だとか、もっと怖い病気にかかった時に出る便が、説明書き付きで並んでいました。中には白いのもあって、それは白色便性下痢症と書かれてあり、アタシは楢原医院へ連れて行かれる度に、目が釘付けになりました。(妹のタコヤキは、この白色便性下痢症にかかってひどい目にあった事があります。)
名前を呼ばれて診察室に入ると、アタシは円くてクルクル廻る椅子に座らされました。椅子が廻るのは、お腹や胸だけではなくて、背中にも聴診器を当てるためでした。
楢原先生は、白衣の首に聴診器を下げていて、おでこには銀色の真ん中に孔が開いた円盤みたいな物を付けていました。(額帯鏡という名前だそうです。)そして、楢原先生は右手に銀色のバターナイフみたいな物を持つと、すぐに反対の手で、額の銀色の円盤を下向きにします。バターナイフみたいな物で、舌を圧されると、オェっとなるのが嫌で、アタシは圧される前に喉を大きく開ける練習を積み重ねて習得していました。日焼けしたみたいに色黒で、眉毛が濃くて、グリンとした目の楢原先生は、アタシから見ると、少し外国人のような感じでした。 楢原先生はいつも、喉が腫れてるな…とか、今度の口内炎もでかいぞ〜と、何だか嬉しそうでしたが、アタシは一刻も早く待合室の便の標本のあるベンチに戻りたいと思っていました。
でも、口内炎で診てもらう時には、大抵の場合、「焼いとくかぁ」と言われるのです。母も断らずに「焼いちゃって下さい。」と答えるものですから、アタシの恐怖は相当のものでした。
今にして思い返しますと、焼くという治療は、火で炙る訳ではなくて、薬剤で焼く治療なのですが、その鼻につく臭いのする薬がたっぷり染み込んだ脱脂綿付きの棒が口に近付いてくると、アタシはギュウッと目をつむって我慢しました。 終わって目を開けると、楢原先生の額の円盤は元の上向きに戻っていて、楢原先生は、何だかとても愉快そうに、大きな目でアタシを覗き込み、「焼いた方が早く治るんだよ。そうしたらまたたくさん食べられるさ。」と言いました。 口内炎以外でも、風邪や腹痛、おたふく風邪に水疱瘡…。何か病気にかかる度に、アタシは楢原先生のお世話になりました。診察を受ける時の楢原先生は、本当にいつもご機嫌でした。数年して、木造だった楢原医院は、コンクリートの2階建てになりました。中は大きな病院のように真っ白で、残念な事に、便の標本は無くなってしまいました。その代わり、とても美人の看護婦さんが何人か増えました。母は、「楢原医院の看護婦さんは美人揃いだよね。きっと先生が好きなタイプの人ばかり雇うんだよ」と
言っていました。確かに、看護婦さんは皆がどこか似ていて、色白でほっそりした顔立ちに切れ長の目をした女性が多かったと思います。
アタシは、楢原先生が色黒でギョロ目だから、自分と正反対の人が好きなのに違いないと思いました。
幼稚園から小学校の3年生くらいまで、年に何度も連れて行かれた楢原医院でしたが、10歳になる頃からは、風邪を引いたりすることも減って、アタシが通うのは歯医者さんくらいになりました。 5年生になった頃に、楢原医院の入り口に「院長急病の為、暫くの間休診します」と書かれた貼り紙が出されました。 アタシは、お医者さんが病気になったら、いったい誰が治療をするんだろうかと考えました。自分で喉に薬を塗ったり、自分で自分に聴診器を当てるんだろうかというような事も想像しました。 その年の夏休みに、アタシは夏バテになりました。毎日だるくて仕方がなく、久しぶりに楢原医院に行きました。保険証を持たされて、一人で行ったのです。 楢原先生の病気は治ったと聞いていましたが、先生は一回りくらい小さくなっていて、以前のように愉快そうな顔で笑ったりはしませんでした。 アタシが診察室を出ようとドアに手をかけた時、楢原先生が言いました。「もう口内炎は出来なくなったかい?」と。
それが、楢原先生に会った最後でした。
引っ越しをして、中学、高校と進む頃には、病院に行かなければならないほどの病気にはかからなくなっていました。それでも、年に1度か2度は口内炎が出来て、その度に、旧い木造の楢原医院と、白衣を着て愉快そうに治療をしてくれた楢原先生の姿を思い出します。
現在の楢原医院は、別姓の女医さんが院長先生になり同じ場所で続いています。その女医さんは、楢原先生の娘さんで、結婚して姓が変わった後も、ご夫婦で楢原医院を継いでいるそうです。

追記 ※ 口内炎は、今ではレーザーで焼く治療が主流だそうです。それから、アタシが大小姉さんを産んでから暫く居住していた川越市で、笠間医院という内科小児科に度々お世話になっていました。他にも小児科はあったのですが、笠間医院は旧い木造の建物で、待ち合い室に、あの便の標本が掛けてあったのです。なんとも言えない懐かしさと共に、白髪の先生が優しくて、不思議な安心感があって、掛かり付けに決めていました。 お医者さんという職業は、治療の腕や設備も大切だとは思いますが、身体だけではなくて、気持ちも弱くなっている患者さんに対して、安心感を与えるような人柄も重要だと今も思っています。

2015年4月22日水曜日

そうちゃんの思い出

6年生になる時に引っ越したマンションには、同じクラスに転校する事になった友達が二人いて、その一人が10階の部屋のそうちゃんという男の子でした。そうちゃんは野球選手になるのが夢で、いつも頭を丸刈りにしていました。野球選手になる事は、そうちゃんの家族の夢でもあったようで、毎日夕方から夜にかけて、お父さんとトレーニングをしていました。
アタシの家は4階の東南角部屋で、東側の窓から下を見下ろすと、そうちゃんとお父さんがトレーニングしている姿を見る事が出来ました。トレーニングは、楽しげなキャッチボールのようなものではなくて、テレビでやっていた巨人の星という漫画の主人公の星 飛雄馬のようにキビシイものでした。 腰にロープを巻き付けて、そのロープの先には大きなタイヤが結び付けられていて、そうちゃんは、そのタイヤを引きずって、汗にまみれて走っていました。 マンションの回りを何周も走ったり、お父さんが投げるボールを追いかけたりするのは、毎日休む事なく暗くなるまで続くので、近辺の人は皆が知っていました。
学校でのそうちゃんは、寡黙で目立つ存在ではありませんでした。 他の男子生徒と悪ふざけをするような様子もありませんでした。 ある日、クラスの男の子がそうちゃんをからかった事がきっかけで、その男の子とそうちゃんが喧嘩になりました。取っ組み合いで、誰かが先生を呼びに行く程の大喧嘩でした。
かけつけた先生は、クラスの皆に、机と椅子を片付けるように指示をして、それから「一対一でとことん戦え!気が済むまでやれ〜」と二人に言いました。喧嘩を止めなかったのです。(今だったら、親が怒鳴り込んで来るでしょうし、学校側の責任問題にも発展するかもしれません。)
広くなった教室の真ん中で、二人は殴り合いになり、鼻血が出たり唇が切れたりして、アタシもクラスのみんなも、誰一人、声も出ないくらいの凄まじさでした。 そのうち、そうちゃんをからかった男の子が立てなくなりました。何度か立ち上がろうとしましたが、それでも立つ事が出来ませんでした。アタシは先生が止めに入るはずだと思いました。その時、顔が腫れて血まみれのそうちゃんが、床に倒れ込んでいた男の子に近付いて、男の子を起こしたのです。そして、なんとか立ち上がった男の子に右手を差し出しました。男の子も右手を差し出し、二人は握手を交わしました。その後、そうちゃんは、男の子の肩をポンポンと2回叩きました。 クラスの皆から拍手が沸き起こりました。
アタシも思わず拍手をしました。運動が苦手で、野球の事なんか全然解りませんでしたが、そうちゃんは、ただ体を鍛えているだけではなくて、スポーツマンシップと言うのでしょうか、正々堂々と闘い、負けた相手にも敬意を表するというような精神をも学んでいるんだなと感心しました。 だから、きっとプロの野球選手になる夢が叶うはずだと思いましたし、 夕方にタイヤが擦れる音が聞こえると、頑張れと応援するような気持ちになったのです。
82世帯のマンションでは、毎年代わりばんこに世帯から5人の人がマンション管理に携わる理事をしていて、時々会合を開いていました。 このマンションは、管理を住民が行う自主管理体制をとっていて、よく回覧板が回って来ました。
ある日の回覧板に 「○月○日1階駐車場にて バザーを行います」 といった内容が書かれていました。
アタシは、幼稚園で行われたバザーを思い出しました。タオルやエプロン、可愛い縫いぐるみなどが家々から集められて、お母さん達が焼きそばやお汁粉なども売っていました。それらは、お小遣いで買える位に安くて、ワクワクする楽しさでしたから、同じようなバザーが1階で開催されるなら、アタシも手作りの小物を売ってみたいと思ったのです。 「うちも何かバザーに出すの?」と聞きましたら、母は言いました。 「そういうバザーじゃないんだって。そうちゃんちのお父さんの会社が倒産してね、引っ越さなくちゃならなくなったらしいのよ。それで理事会で相談して、そうちゃんちの家具とかを住民で買ってあげるバザーなんだって。」
そうちゃんのお父さんは貿易の会社を経営していたそうですが、その会社が無くなってしまったんだと説明されたアタシは、とても驚きました。百科事典を引っ張り出して、倒産という言葉を調べて、更に驚き、これからそうちゃんの家族がどうなるのか、野球選手になるというそうちゃんの夢は消えてしまうのかと、心配で堪らなくなりました。
アタシは、バザーには行きませんでした。行ってみたい気持ちもありましたけれど、そこにそうちゃんが居たら、真っ直ぐに顔を見る事が出来ないと思ったからです。
週末の2日間行われたバザーでは、沢山のマンション住民の他に、近所からも人が来て、出された物は完売したと聞きました。このバザーは、今で言うオークション形式で、一番高い値段をつけた人が買う事が出来て、募金もたくさん集まったそうです。その売上金と募金は全てそうちゃんの家に渡されたと聞きました。
そうちゃんのお父さんは「家族の為にも、協力して下さった皆様の為にも、必ず逆転勝ちします。」と、深く一礼をされたと聞きました。そして、そうちゃん家族は引っ越して行きました。
アタシは、その話を聞いて少し安心しました。強い家族だから、きっと大丈夫だと思いました。
数年後、そうちゃんは、地元の野球の名門、上尾高校に入った事を風の噂で知りました。 昨年、テレビで社会人野球を題材にしたドラマをやっていて、運動音痴のアタシにも面白く見る事が出来ました。負けて負けて負けまくっていても、本当に大逆転が有りうるんだと知りました。そしてふと、そうちゃんの事を思い出しました。今は、インターネットの普及で、様々な方法で過去の出来事や、懐かしい人を探す事が出来ますが、アタシは思い出となった過去を呼び戻す事には抵抗があります。ですが、そうちゃんについては、野球を続けているはずだという確信のようなものがあり、プロ野球の選手を検索してみましたが、そうちゃんの名前は見当たりませんでした。そうちゃんが在学中だった時代に、上尾高校は甲子園にも出場出来なかったようでした。パソコンを落とそうとした時に、野球好きの人達が集まり雑談しているサイトを見付けました。野球には、プロ野球の他にも社会人野球など、色々な活躍の場があるらしい事を知りました。そして、そのサイトの書き込みの中に、
各都道府県にも様々な野球チームがあるという一文がありました。更に読み進んでみましたら、地元のシニア野球チームの監督欄に、そうちゃんのフルネームが記されていました。プロ野球選手とも交流がある名監督だと書かれていました。そうちゃんのお父さんは逆転勝ちして、そうちゃんも野球人生を歩んでいることが判り、アタシは40数年前の事を懐かしく思い出しています。

追記※ 通常のマンショでは、管理会社がマンション管理を行っています。実家だったマンションでは、施工会社が管理を行うはずでしたが倒産してしまい、住民の投票によって、住民独自の自主管理体制が決まりました。 住民同士の交流企画の中には、夏に屋上で花火を観賞する集いですとか、ゴルフ愛好会等もありました。アタシの父が役員になった年に、新たな管理人さんを探す事になりました。マンションの管理室は居住出来るようになっていましたので住み込みです。 父は、国道の向こう側にあったスーパーマーケットの裏を根城にしていたホームレスの男性の身元引き受け人になり、その男性を管理人として雇用しました。
こざっぱりと身なりを整えた男性は、大変評判の良い管理人さんとなりました。
父との同居が決まった20年くらい前に、実家マンションは売却してしまいましたが、築40年を越えた今でも、チームワークの良い自主管理が続いてるそうです。

2015年4月15日水曜日

ミヨちゃんの思い出

昭和48年、アタシはそれまで住んでいたアパートから、82世帯が入居していた新築のマンションに引っ越しました。6年生での転校でしたが、近辺には次々と共同住宅が建築されていた時期だったこともあり、その年の転校生は相当の人数で、アタシが入ったクラスにも、同じマンションから3人、他にも2人の転校生がいました。 6年間の小学校生活の中でも、この1年間はとても楽しい年でした。
アタシは小柄で、整列すればいつも一番前か二番目でしたが、6年生の間に急に背が伸びて、二学期だけは真ん中辺りになりました(当時148センチ39キロですから、ほぼ成長が止まった年齢です)。 クラスは皆な仲が良く、大学を卒業したばかりの男性担任(残念な事に、後に逮捕されてしまいました)
もやる気に満ち溢れた活気のあるクラスでした。マンションのすぐ近くに小学校がありましたが、学区が違っていたために入れず、アタシ達マンションの子供は、片道40分の通学時間がかかる学区の小学校に入りました。その通学路の中間地点辺りに、ミヨちゃんは住んでいました。
ミヨちゃんは、髪が長くほっそりしていて、整った顔立ちの美人さんでしたが、口数が少なく大人しい女の子でした。ミヨちゃんは学校を休む事が度々ありました。だから、渡さなければならないプリント等を、同じ通学路を使っている友達が届ける事になります。
学校が終わっても、校庭で遊んでいる生徒がたくさんいましたが、アタシは一目散に帰る方だったので、よくミヨちゃんの家にノートやプリントを届けました。 ミヨちゃんのお家は曇りガラスが嵌まった引き戸の玄関で、それは祖父母の家もそうだったので珍しくはありませんでしたが、1歩玄関の中に入ると、殆ど人の気配がなく、出てくるのもミヨちゃん本人だったので、お父さんもお母さんも仕事をしているのかなと思いました。
6年生ともなると、其々の家庭の暮らしぶりに違いがある事くらいは解っていました。
ミヨちゃんは、給食費や学級費の集金日に封筒を持って来ないことが多かったし、それよりももっと気になったのは、寒い冬でもコートを着ていなかった事です。ひと冬の間、薄手の紺の上着で過ごしていました。卒業式の日には、皆なが新しいワンピースやスーツを着ていて、アタシもモスグリーンのワンピースに紺のブレザーを新調してもらったのですが、ミヨちゃんはいつものスカートにいつもの上着姿で、在校生につけてもらう赤い花飾りだけが、唯一卒業生らしく衿元を飾っていました。アタシもミヨちゃんも同じ中学校に進学しました。そして、3年生の時に、再び同じクラスになりました。ミヨちゃんは中学校でも休みがちでした。1週間以上登校しない事も珍しくありませんでした。中学は10分程の距離でしたが、アタシは時々遠回りをして、ミヨちゃんの家の前を通りました。家は静まりかえっていて、誰も住んでいないような感じさえしました。三学期に入り、皆が高校受験で忙しくなり、アタシも卒業の事で頭が一杯になりました。今とは違って子供の数が多く、高校浪人
という言葉が聞かれる時代でした。卒業式の間近になって、ミヨちゃんは高校へは行かずに、看護婦さんになるための学校に進む事を知りました。
アタシがミヨちゃんと再会したのは、19歳の時です。アタシは高校卒業と同時に東京で独り暮らしをしていました。母が胃潰瘍で入院したと連絡があり、地元の病院に向かう途中だったと記憶しています。
向こうから歩いて来たのは、艶やかな黒髪を1束にまとめて、薄くお化粧をして、細身の丈が長い黒いコートを着て、以前よりも更に綺麗になったミヨちゃんでした。
ミヨちゃんはアタシを覚えていてくれました。
「私、看護婦になったの。准看護婦だけど、今は隔離病棟で働いてるんだよ」と話してくれました。 「隔離病棟って?」と尋ねましたら、人に移ると危険な結核みたいな病気の人が入院してる病棟で、普通の病棟よりもお給料がたくさんもらえるんだと説明してくれました。 6年生になった頃からミヨちゃんの両親は帰って来ない日が増えて、小さな弟と二人きりの日が何日も続く事も度々で、食べる物が無かった日や、何日もお風呂に入れない事もあって、寒い冬でも、ストーブの灯油さえ無い日が続いていたそうです。給食のパンを持ち帰って、夕飯にした事もあったそうです。その後、弟さんは施設に入り、ミヨちゃんは奨学金で看護婦さんになる学校に通い、再会した時には、病院の寮で暮らしながら、夜は正看護婦になる学校に通っているとの事でした。
「弟は高校に入れたから、お小遣い送ってるんだよ。寮はご飯が出るから、今はお給料で新しい洋服も買えるの。このコートも自分で買ったんだよ。白を勧められたんだけど、なんとなく黒にしたの。あの頃は皆が羨ましかったよ。中学は制服だったから良かったけど、でも授業にはついていけなかったんだよね。」と言ってサラサラと笑いました。
いつも同じ服を着ていて、冬でもコートすら無かった理由を、アタシは何年も経ってから知ったわけです。
守られた中での暮らししか知らなかったアタシには、ミヨちゃんの話しになんと答えたら良いかさえ判らずに、看護婦さんの帽子を被っているの?とか、危険な病気がミヨちゃんに移ったりしないの?などと、そんな質問ばかりした記憶があります。
自分の身を立てるだけではなくて、弟さんに仕送りまでしながら働いているミヨちゃんが、アタシよりもずっとずっと大人に見えました。ミヨちゃんの美しさは、目鼻立ちが整っているからだけではなくて、置かれた境遇が与えたガラスのように壊れそうな美しさだったと思います。再会した時に感じた美しさは、ガラスに鉛を加えて強度を増したクリスタルのようでした。ミヨちゃんに与えられた鉛は、重く苦しいものだったはずですが、そのしなやかで透明感のある美しさは、真冬の1枚のコートよりもずっと暖かく、ミヨちゃんの人生を守ってくれたのではないかと思います。
その再会以来、ミヨちゃんと会うことはありませんでした。1度だけ出席した同窓会でも、ミヨちゃんの消息を知っている人は居ませんでした。だけどミヨちゃんは今でもきっと、親身に患者さんに寄り添う優秀な看護士さんとして、どこかの病院で働いているような気がしています。物が溢れる今の時代の中で、つましさを忘れずに暮らしているに違いないと思っています。
手元のアルバムに、6年生の遠足の記念写真が1枚だけ残っています。それは同じ班の6人が映っているのですが、皆が笑顔でカメラを見ている中で、アタシの隣に立っているミヨちゃんだけが、カメラとは違う遠くの方を見ている写真です。

2015年4月1日水曜日

祖母の思い出増子編

大抵の子供には身近に両親が居て、それぞれの実家には祖父母が存在しています。
アタシの場合も、住まいから徒歩圏内に両親の実家があり、二人の祖父と祖母が居ました。 全員が元気に揃っていたのは小学校の5年生までですが。
50代に入ってから、アタシは身体的に父方の要素が強く、更に、父方の祖母によく似ていると自覚するようになりました。どちらもお祖母ちゃんと呼んでいて、お祖母ちゃんの名前を知ったのはずいぶん大きくなってからです。今でこそ、家々の表札には、家族のフルネームを書いてあるお宅が珍しくなくなりましたが、アタシが子供の頃は、表札には苗字だけ、或いは、世帯主だけが書かれている事の方が一般的でした。
父方の祖母は、増子と言う名前でした。

祖母は、とても小柄で、髪はほぼ白髪で、それを一束に結って頭の下の方に小さなお団子にしてまとめていました。普段は地味な着物に白い木綿の割烹着姿でした。
どちらかと言うと口数が少なく、明るい印象の人ではありませんでした。
祖父が台東区の鴬谷で、装身具製作所を営んでいた事もあり、父方の実家は、当時にしては裕福な部類に入っていたと思います。 平屋でしたが、間口の広い玄関があり、廊下の先には板の間の台所。廊下の右にふた間続きの和室があって、左側には、狭いけれど、ピアノが置かれた洋間もありました。 庭も、木製の物置小屋があって、ムベやナツメの木等が植えられていました。
アタシの父が長男、二歳違いの長女(叔母健在)、更には、父と17歳離れて産まれた次男(叔父健在)がいて、アタシが幼かった頃、まだ叔父は高校生でしたので、よく黒い学生服姿を見かけたものでした。 祖父には、数人のお妾さんが居て(鴬谷の仕事場が二号さんのお宅でした。)、週末にしか帰って来ませんでした。それは身内の皆なが知っていましたが、とやかくいう人はいなかったのです。祖母は毎月、それぞれのお妾さん宛に生活費を仕送る為に郵便局に行っていました。今のようにATMなどありませんでしたから、仕送りでも小包でも、最寄りの郵便局を利用することが一般的だったのです。
アタシの母は、アタシが小学校の高学年になるまでは専業主婦でしたので、週に1度か2度、父の実家に家事を手伝いに通っていました。 何故ならば、祖母は身体に無数の傷痕があり、腕が不自由だったからです。その傷の事は、口に出しては聞けないくらいの痛々しさでした。後に聞いたところによりますと、若い時分に破傷風にかかり、生死の境をさ迷ったそうです。その時に、下町の腕の良いお医者さんが手術をして命を救ってくれたと聞いています。 アタシは時々、祖母の家に預けられる事がありました。祖母は、黙々と家事をこなし、くたびれると和室にあった火鉢の傍に座って、煙管にキュキュッと刻み煙草を詰めて一服していました。そして、カンカンと灰を落として、また立ち上がりました。アタシが興味深げに見ていると、缶の中からお煎餅を一、二枚取り出して、火鉢の網に乗せてくれました。その姿は小粋で、どこか玄人の風情がありました。母方の祖母は、子供相手に朗らかに笑ったり喋ったりしていましたが、此方の祖母は、淡々としていて、アタシはそ
の姿を眺めている時間の方が長かったと記憶しています。祖母は、サボテンを育てる事と、日陰の苔を育てる事が趣味でした。サボテンは、庭の覗き込めるくらいに低い温室の中に整然と並べられていて、昼間はつっかえ棒で蓋を開けて陽を当て、夕方にはつっかえ棒をしまって蓋を閉じます。子供のアタシには、このトゲトゲのあるサボテンを育てる楽しみを理解する事が出来ませんでした。広い庭に花壇でも作って、色とりどりの花を咲かせる植物を植えたら良いのにとさえ思っていました。庭の垣根の向こう側がお寺さんで、植え込みの間から墓石が見えていたからでもあります。墓地の前を通る時には、親指を隠せと言われていて、それは、親の死に目に会えないからという理由でしたが、子供のアタシには、親の死に目に会えないという意味もよく解らず、それでも墓地の前を通る時にはギュッと親指を隠して速足になったものです。祖母の庭では、いつも手をグーの状態に握りしめているわけにも行かず、どうしたものやら気がかりでした。それでも、サボテンや苔は、祖母の大切な物
だと知っていましたので、アタシはその作業を手伝いもしましたし、庭を歩く時には、祖母のえんじの鼻緒の下駄をつっかけて、苔を踏まないように気を付けながら、飛び石の上を歩くようにしていました。庭側から見える縁の下には、沢山の植木鉢が並べてありました。祖母との会話は多くはありませんでしたが、アタシが、「どうしてタンスに布をかけてあるのぉ?」と聞けば、桐の箪笥について詳しく説明をしてくれて、黒ずんだら削り直す事も出来ると教えてくれました。かけてある布は油箪(ゆたん)といって、桐のタンスを保護する為だと教えられました。「あれはなーに?」と、衣紋掛けにかかった黄土色の着物を指差せば、それは丹前(たんぜん)と言って、お祖父ちゃんが浴衣の上に羽織る物で、中には真綿が入っていて温かいのだと説明しながら、綿がヘタって来たから打ち直さないといけないと言っていました。お祖父ちゃんは秋田(皆瀬村)の出だから寒がりなんだと、その時は少し笑顔を見せてくれました。 アタシに、真っ白なレース糸をく
れて、レース編みを教えてくれたのも祖母です。同じモチーフを何枚も編めたら、それを全部繋げてピアノのカバーにするんだと言っていました。ピアノは叔父の為のものでした。
祖母は、アタシが、四年生の時に病気になり、順天堂大学病院に入院しました(虎ノ門病院だったかもしれません)。お見舞いに行くと、祖母はますます小さくなった身体をベッドに横たえ、「痛い痛い」と言って苦痛に顔を歪めていました。骨ガンが全身に転移していたのです。 枕元に、バファリンの箱が積まれていました。(この入院の際に、大学病院の先生方が、祖母の破傷風の手術痕を視るために集まり、その見事な技術に驚きの声が上がったと聞いています。) それが、アタシが祖母に会った最期でした。
大人になってから、当時はモルヒネ等の痛みの治療が進歩しておらず、とにかくバファリンを飲ませるしかなかったと聞きました。また、祖母の最後の言葉が 「お父さんは?お父さんは?」だったと知りました。祖父の事です。祖父が顔を見せると、大きく目を見開いて祖父の姿を追い、それから静かに息を引き取ったそうです。
祖母は若い頃、髪結いとして、粋な姐さん達の髪を結う仕事をしていて、とても腕が良く、増子さんの島田(日本髪の結い方)は、上手いからと指名が掛かる評判だったそうです。また、出身は結城で、結城紬を織る旗の音を聞いて育った事も知りました。
祖母にとって、30を越えてから産んだ叔父は大層可愛い存在だったようでした。アタシの父も叔父を溺愛していました。父が今の東京芸大の前身の上野美術学校で造形を学んでいた頃、留守番中に、まだ子供だった叔父が大怪我を負いました。長く薬を服用する必要がある程の後遺症が残りました。そのような事があったせいか、祖母の死から数年後に祖父が他界した時に、本来は長男である父が継ぐべき家の相続を放棄して叔父に継がせたのは、父の弟への並々ならぬ愛情でもあったし、また、祖母の意思を尊重したからだと聞いています。 祖父が、本妻である祖母をどう思っていたかは判りません。でも、記憶の中では、ピアノのある洋間には、祖父が軍服を着た姿が立派な羽子板になって飾られていて、それが収められたガラスのケースはいつもピカピカに磨かれていましたし、また、祖父が居るお正月には、祖母がいつもと違って嬉しそうな様子でしたから、祖母にとっての祖父は、かけがえの無い大きな存在だった事は間違いないと思うのです。 男の甲斐性とはいえ、祖
父は何人ものお妾さんを囲っていたわけですから、祖母は寂しさや辛さを耐えていた筈です。 その心の内を想うと、胸が詰まります。
アタシは祖母の桐箪笥、三味線を形見分けしてもらい、随分長く使っていましたが、今はありません。背丈が小さいから合うだろうという理由で、数枚の着物も受け継ぎました。着古した夏の単物は処分してしまいましたが、手元に残っている木綿の久留米絣一枚を大切にしています。洗い晒しの素朴な風合いの着物です。
様々な事情があり、叔父や叔母とは疎遠になってしまいましたが、増子お祖母ちゃんは、アタシが現在、和の仕事にも携わっている原点だと思っています。 父方の実家は、特に祖父が居る時には、職人さんの出入りも多く、決して居心地の良い場所ではありませんでした。ですが、祖母の人生を思い返しますと、当時の女性の悲哀のようなものを感じますし、顔付きが似てきた自分を不思議に思いつつ、あの家も庭も温室も、なだらかな曲線で日陰を覆っていた苔さえも、とても懐かしい原風景として浮かんで来るのです。
祖母は、いつ花咲くとも判らないサボテンや、日陰の苔の中に、どんな美の世界を見ていたのでしょう。
腰が曲がった小さな身体と、不自由だった右腕をさすっていた様子、時には粋に煙管をくわえた姿を思い出しますと、 明治、大正、昭和を生きた祖母の強さと共に、辛抱という二文字が浮かんで来るのです。 我慢の先には不平不満が充満するが、辛抱の先には希望があると、ものの本で読んだ事があります。 幼かったアタシにはトゲばかりが印象に残っておりますが、もしかしたらあのサボテンは、何年かに一度であったとしても、鮮烈な色の花を咲かせていたのかもしれません。

追記※
父方の祖父については、その近寄りがたい風貌と、秋田なまりで言葉が聞き取りにくかった事、また、初孫である兄を可愛がっていた等の事情で、書き留める思い出が浮かびません。
祖母が他界した2年後の、アタシが小学6年生の夏に、喉頭ガンが肝臓に転移して亡くなりました。 戦後の日本が復興していった時代に、一代で貴金属装身具の会社を立ち上げ、業界の初代会長を務めたと聞いています。 港区芝の増上寺で執り行われた葬儀には、服部時計店(現在のセイコー)社長、田中貴金属の社長などが弔問に訪れ、周辺は黒塗りの車で埋め尽くされました。跡を継いだ父が喪主でしたが、アタシも母も延々と続く焼香の列を見守って居ました。末席には、お妾さん方の姿もあり、箱根から駆け付けて来たという女性は、身内さえも知らない方だったそうです。元々、美術の道を進みたかった父と祖父の間には確執があり、父は、祖父が他界した後にどんどん仕事を縮小して職人さんを独立させ、母の他界を期に廃業しました。ですが、仕事の依頼は残り、結局はアタシが、今の仕事の中の1つの業務として、細々と3代目を受け継ぐ形となりました。かなりのご高齢となりました職人さんから、今でも賀状などをいただいています。

2015年3月25日水曜日

ドスンドスンおばさんの思い出

人の記憶というものが、いつから語れるだけの象になるのか、アタシは脳の専門家ではないので判りませんが、思い出を綴っていて気付いたのは、2歳後半くらいからの記憶は、かなりはっきりとしているのではないかということです。
ブログでタコヤキと呼んでいる妹は、アタシと2歳9ヶ月違いなのですが、アタシは、母がタコヤキ出産の為に産院に入院している間の事や、退院してきた母が、助産婦さんと話ながら、木のたらいでタコヤキを沐浴させていた事をはっきり覚えているのです。(バナナを買って父と産院にお見舞いに行ったら、もっとマシなもん持って来いと母が怒ったり、退院後になかなか目を開かなかったタコヤキを、母と助産婦さんが心配して、このまま目が開かなかったらあんまさんにすれば良いさと話してた事など。)ドスンドスンおばさんは、アタシが覚えている中で、一番最初にアタシに恐怖という感情を与えた人です。2歳後半から3才くらいで出会いました。
ドスンドスンおばさんは、雨の日にだけやって来ました。真っ赤な傘をさして、玄関からではなく、狭い庭の向こうのガレージから歩いてきて、ブロック塀の真ん中辺りに一列飾り穴が開いていて、その穴から部屋の中をじっと覗くのです。それはいつも、年子の兄と留守番をしている時でした。住んでいたアパートは、坂の途中に建っていましたので、部屋は1階でしたが、庭から見下ろすガレージは半階くらい下に見えて、そこに大人が立つと、ちょうど塀の飾り穴に顔の位置がきます。そして、ドスンドスンおばさんがさしていた傘は、塀の上に浮かんで見えました。
たまたま通りかかった知り合いが、このガレージ側から声をかけてくる事も珍しくはありませんでしたし、祖父母でさえも、玄関をノックしても留守だったりすると、母が昼寝でもしていて気づかないのかもしれないと思い、このブロック塀から部屋を覗いていたようです。 留守にする時には、庭側の窓はきっちりと閉めていましたが、たまに窓を開けたまま、母は昼寝をしていました。
その日は雨で、アタシは幼稚園に通っていた兄が買ってもらったBブロックで遊んでいました。高くつなげて積み上げると、兄が怪獣の玩具で破壊するといった遊びです。 その時に、突然部屋が揺れました。窓ガラスもガタガタ音を立てて、箪笥の上に並べてあったこけし人形が倒れて落ちました。天井からは、円形で紐が下がっている蛍光灯がつけてありましたが、それもゆらゆら揺れました。兄とアタシはびっくりして、辺りを見回しました。 その時兄が「外に誰かいる!ほら!」と言ったのです。アタシは兄が指をさしたガレージの方を見ました。塀の上に真っ赤な傘が浮かんでいて、飾り穴から見ず知らずの女の人がじーっとこっちを見ていました。飾り穴は小さくて、目しか見えませんでしたが、その見ず知らずの女の人は、此方を凝視したまんま足を何度も踏み鳴らすのです。
兄が「窓を閉めろ!早く!」と言ったので、アタシは我にかえって必死に窓を閉めて、ねじ式の鍵を何度も回しました。 暫くしてそっと見てみると、その女の人は赤い傘をさしてガレージの出口の方に向かって歩いていなくなりました。部屋の揺れも収まりました。
大きな体をした人でした。 兄は「あの人が足を踏み鳴らしたから揺れたんだ」と言いました。アタシは、またあの人が戻って来るんじゃないかと恐怖に怯えました。
帰宅した母に話すと、斜め上を向いて考えていましたが、結局誰だったのかは不明でした。
暫くは忘れていたのですが、また雨の日の留守番がやって来ました。兄は「今日もドスンドスンおばさんが来るかもしれないから窓を閉めよう」と言いました。それをきっかけに、その女性の呼び名はドスンドスンおばさんになったのです。 恐怖を思い出したアタシは、きつくきつくねじ鍵を閉めました。
アタシは早く母が帰って来る事を願いながら、なるべく窓に近付かないようにしていました。 部屋の中で一番安全なのは押し入れの中かもしれないけれど、夜になって布団を出さなければ、押し入れに隠れる隙間も無いから、そうしたらトイレに逃げようなどと考えて、遊びに熱中出来ませんでした。
ふと窓の方に目を向けましたら、柳通りの方から赤い傘が近付いて来るのが見えて、アタシは「来たよー来たよー!ドスンドスンおばさんだよー」と叫んで、2畳あるかないかの狭い台所に走り逃げました。赤い傘は、また塀の上に止まって、ドスンドスンおばさんは穴から部屋の中を見て、何度も何度も足を踏み鳴らしました。
兄も「ドスンドスンおばさんだー」と言って、ふた間しかない部屋を走り回っていました。 雨の日の留守番では、それから何度もドスンドスンおばさんが現れては帰って行ったのです。
アタシはその頃からずっとオネショが止まず、兄が、晴れて恐怖の時間を過ごさなくても良い日にまで、「今度ドスンドスンおばさんが来たらやっつけよう」などと、恐怖を思い出させる事を言うので、雨音が聞こえる朝は憂鬱でした。
正体不明であったが故の恐怖でしたから、アタシは今まで生きて来たなかで、自分が何者なのかということを含めて、特に初めて会う人などには、不必要かもしれない情報まで開けっ広げに話す習慣がついています。
人が恐怖を覚えたり、警戒心を持ったりするのは、目に見えないとか、よく判らない…つまり、存在を信頼出来ない時だと思います。 ドスンドスンおばさんは、そういった意味で未知なる恐怖でした。もしもドスンドスンおばさんが、「おばさんはコレコレこういう者で、こんな理由であなた達を覗いているんだよ…足を踏み鳴らす理由はね…」と自己紹介でもしてくれていたとしたら、もしかしたら雨の日の留守番を楽しみにする事が出来たかもしれないわけです。
ドスンドスンおばさん、貴女はいったい何者だったのでしょう?アタシは今、10階という高い所に住んでいるので、もう来られませんね?足も踏み鳴らせません。ですけれど、もしももう1度いらっしゃる事がありましたら、アタシは歓迎します。ぜひとも名乗り合って交流しようではありませんか。
この思い出につきましては、地震でも起こった日に、幼いアタシが恐ろしくて、ドスンドスンおばさんという妄想の人物を記憶にすり替えたと思われても仕方がないのですが、アタシは本日、兄に電話をかけて確認しました。以下は兄との会話です。

アタシ「あのさ、アタシ今ね、子供の頃からの思い出を書いてるんだけどさ、ちょっと聞きたいんだけど ドスンドスンおばさん覚えてる?」
兄「おぅ、あの人でしょ?雨の日に来て部屋をガタガタ揺らした。覚えてるよ。雨戸まで閉めてもその隙間から覗くんだよね。雨戸ガタガタさせてさ…。俺はさ、ほら、ちょうどあの頃テレビで大魔神ってやってたじゃん。その冒頭のシーンとかぶってさ…泣いたよね〜」
記憶してました。3才歳上の兄いわく、実はタコヤキも居て大泣きしていたんだとの事です。窓ガラスだけじゃなくて、一緒に雨戸も閉めたそうです。
雨の日だった事も一致しています。書きながらふと思いました。ドスンドスンおばさんが母だった可能性はないだろうかと。 仮定として、考えられる理由は、面白かったからという事になってしまいますが、そうであってもそれほど驚かない、つまり、そういう事をやってもおかしくはない母でした。聞く術が無いのが残念です。

注※ 文中に、あんまさん と言う言葉を使っていますが、これは盲人に対する蔑称と受け取る向きもあり、あまり使わない方がよい言葉とされている事を承知のうえ、あえて使っています。庶民の間で使われていた普通の言葉として。

2015年3月22日日曜日

しんちゃんの思い出

小学校入学で、アタシは1年2組になりました。担任は阿部先生という女の先生で、いつもキリッとしたスーツを着ていて、眼鏡も左右がつり上がった形だったせいか、とても怖く感じました。入学してしばらくした図工の時間に、細い竹の棒を使って紙の鯉のぼりを作る事になりました。その竹の棒が余って、阿部先生はいつも片手にそれを持ち、黒板の字を指すのも、誰かに問題を答えさせる時も、その竹の棒を使っていたので、アタシには竹の棒が鞭のように見えました。
いたずらっ子は、よく廊下に立たされたりもしました。青という漢字が書けずに、アタシは居残りをさせられまた。(この居残りは屈辱的な記憶として残っていて、人に何かを教える立場の人がどうあるべきかを考えるきっかけになりました。)この1年2組に、しんちゃんが居ました。 しんちゃんは特別に目立つ男の子ではありませんでしたが、アタシの母方の実家の隣がしんちゃんのお家だったのです。祖父母の家には庭がありました。玄関脇に、ポポーと言う果物がなる木があって、アタシはよくポポーを食べさせてもらいました(ポポーを聞いたことが無い方も多いかと思いますが、アタシは5〜6年前にネットで見つけて取り寄せました。それまではポーポと記憶していました。) 玄関から東に向かって細い通路があり、右側は盆栽が並んでいました。通路を抜けると小さな池のある庭に出ます。決して広い庭ではありませんでしたが、柿の木が植えられていました。その柿の木にハシゴが掛けられていると、アタシは落っこちないように気を付けながら登
りました。(母が子供の頃、この柿の木の実を取ろうとして、枝ごと落ちたと聞かされていましたから) 柿の実をもぐためではなくて、しんちゃんのお家が見たかったからです。
しんちゃんのお家の庭は、光るような緑の芝生が広がっていて、そこには真っ白なブランコもありましたし、滑り台もありました。全速力で走り回れるくらいに広かったのです。芝生の庭の奥にあったお家も白くて、近辺の木造住宅とは全く趣が違い、外国のお家のようでした。幼稚園時代に、テレビでブーフーウーと言う人形劇をやっていました。子豚の3兄弟それぞれが、わらの家、木の家、石の家をつくり、わらと木の家は狼に吹き飛ばされてしまうのですが、丈夫な石の家は狼に負けなかったので、アタシはしんちゃんの白いお家は多分、石の強い家だろうと思いました。アタシは、ハシゴの上から、しんちゃんのお家や庭を見るのが好きでした。時々、その芝生の庭にしんちゃんが走り出てきて、向かい合って座れるブランコで遊び始めたりすると、アタシは見つからないようにそっとハシゴから下りました。そして、もう少し眺めていたかったのにという残念な気持ちと、覗いている自分を恥ずかしいと思ったりもしました。しんちゃんのお父さんは、仕事で外国に行く事もあるらしく
、祖父は隣の坊っちゃんと呼んでいました。
しんちゃんは、皆と同じ給食を美味しそうに食べていましたが、しんちゃんの外国みたいなお家や庭を知っていたアタシは、もしかしたらしんちゃんは、お家では外国みたいなご飯を食べているかもしれないと考えたりしました。朝御飯は、卵かけや納豆や焼き海苔じゃなくて、パンと紅茶なんじゃないかとも想像していました。
とにかくアタシは、自分からしんちゃんに話しかけることは無かったし、しんちゃんから話しかけられた事も無かったと思います。
2年生になった夏休みの事です。 その頃には、家に黒い電話や四本脚のテレビなどが揃っていました。母が電話に出て、「本当なの!!」と大きな声を出して、しばらく話してから電話を切り、アタシの方を振り返って言ったのです。「しんちゃんのお母さんが亡くなったんだって。お母さん行かなくちゃならないからね。」と。 その電話は、多分、クラスの連絡網だったのだと思います。
母は夕方には黒の洋服に着替えて出掛けて行きました。
6〜7歳でも、死んでしまうということがどれだけ大きな出来事かは知っていました。
兄が捕まえて来たカブトムシだって、金魚だって、死んでしまえば動かなくなりましたし、、ハエ捕りリボン(ハエを捕まえる粘着シートで、室内にぶら下げてありました)に張り付いたハエだって、クモの巣に引っ掛かった昆虫だって、みんな死んでしまえば甦る事はありませんでしたから。
アタシがお祖母ちゃんと呼んでいた母方の祖母は、祖父の後添えさんで、母を育てたお祖母ちゃんは、兄が産まれて直ぐの頃に死んでしまったと聞かされていました。御不浄(トイレ)で倒れていたそうです。その時、どれだけ驚いて悲しかったかを、母は時々話していました。(この時に亡くなったお祖母ちゃんも、実は養母だったということを後に知りました)
生きている命が亡くなるという出来事には悲しみが伴う事も漠然と解っていましたから、アタシは、同じ歳のしんちゃんが、お母さんが死んでしまった事でどれだけの涙を流して泣いているかを考えると、心臓がバクバクと音を立てて胸が苦しくなりました。夏休みが終わってから、しんちゃんが1学期と同じように学校に来られるんだろうかとか、悲しくて病気になったりはしないだろうかなどと、様々なことを考えました。
しんちゃんのお母さんは家事以外にも仕事をしていて忙しく、毎日夕方遅くに帰って来ていたそうです。亡くなった日も同じで、家族で夕飯を食べてからお風呂に入ったのですが、いつまでたってもお風呂から上がって来なかったので、しんちゃんがお風呂に見に行ったら倒れていたのだと聞きました。
その出来事があった後も、アタシは夏休みの間に何回か祖父母の家に行きましたが、ハシゴに登ってはいけないような気がしていました。悲しい事があったお宅を、眺めるのが好きだなどという理由で見てはいけないと思ったからです。
夏休みが終わりに近付いたある日、アタシは祖父に工作の宿題を手伝ってもらいに行きました。その日に祖父が「坊っちゃんちを見ないのか?」と言ったので、アタシはこれが最後という気持ちでハシゴを登りました。
芝生の庭にしんちゃんが居ました。しんちゃんは、長い棒の虫取り網を持って、ヒラヒラと舞う紋白蝶を追いかけていました。蝶々は網を避けて舞い翔び、しんちゃんに捕まる事はありませんでした。それでもしんちゃんは、蝶々を追っていました。 その一心不乱な姿が目に焼き付いて忘れる事が出来ません。 1年か2年経った頃、しんちゃんに新しいお母さんが出来た事を知りました。アタシは良かったとは思えませんでした。しんちゃんのお母さんは、死んでしまったお母さん一人だとも思った記憶があります。
幼かったしんちゃんがどれ程大きな別れの悲しみを経験したかという事をアタシが心底解ったのは、それから22年経って、母を亡くした時でした。
子供の頃の記憶には、楽しかった事よりも、驚きや悲しみ、恐怖を感じた思い出が多いような気がします。それは、遊んだり笑い転げたりする楽しい時間が、子供時代のアタシの当たり前の日常だったからなのだと思います。
アタシはずっと、あの晩夏の日、しんちゃんのお母さんが蝶々になって、しんちゃんと戯れ、我が子を励ましていたような気がしてなりませんでした。
40を過ぎた頃、俳句を趣味になさっている和裁士のAさんから、「蝶々は春の季語だけれど、死者の化身だとか、霊の象徴としても使われるんだよ」と教えていただき、改めてその想いを強くする事となったのです。
もしかしたらしんちゃんも、蝶々を見る度に、同じような事を思い出しながら今を生きているのではないかと感じています。

2015年3月14日土曜日

コロの思い出

コロは犬です。住んでいたアパートの入り口を出て、駅の方に向かって3分ほど歩くと柳通り(大きな柳の木があったからで、正式な名称だったかは定かでありません)に突き当たりました。その左角のお宅は、見事な薔薇の庭があったので 薔薇の小野寺さんと呼ばれていました。
コロは、薔薇の小野寺さんとは反対側にあったお宅の庭で飼われていました。
アタシが小学5年生までを過ごした町の界隈には、まだたくさんの野良犬がいて、小さかったアタシにとって、野良犬はとても怖い存在でした。アタシの家では、亀吉というカメと、リリーと言う名前の金魚を飼っていましたが、徒歩圏内にあった両親の実家でも、犬や猫は飼っていなかったし、野良犬に追いかけられたり唸られたりする経験をする毎に、アタシは動物恐怖症になってゆきました。
小学校の中庭に、鶏小屋とうさぎ小屋があり、飼育係りに挑戦してはみたものの、やはりアタシの動物嫌いは直る事がありませんでした。
コロは白くて毛足が長く、赤い首輪に鈴を付けていました。
そしてコロは、時々、首に巾着袋をぶら下げて、一人で(正確には一匹で)お使いに行くのです。 行き先は、商店街のお肉屋さんです。アタシも、お使いを頼まれて商店街に行きましたが、子供がお使いなどを手伝うのは当たり前の事でした。でも、犬が一人でお使いに行くのは、やっぱりとても珍しい事だったようで、近所でもコロは有名な犬だったのです。 コロは野良犬のように唸って近付いてきたりはしませんでしたけれど、お使いに出される時間が重なってしまうと、アタシは前を歩いて行くコロと一定の距離を保ちながら、どうかコロが他の野良犬みたいに近付いて来ませんように…と、祈るような気持ちでコロの何メートルも後ろを歩いて行きました。
動物嫌いのアタシでも、コロの利口さには本当に驚かされました。 首に下げられた巾着袋には小銭と紫色の風呂敷が入っていました(当時、結婚式に呼ばれると、引き出物の中には大抵この紫の風呂敷に包まれた折り詰めが入っていたので、どこの家にもありました)。 お肉屋さんに到達するためには、横断歩道を渡らなければならなかったのですが、コロは、車や自転車にぶつかる事もなく、時には人々に助けられたり撫でられたりしながら、ちゃんとお肉屋さんに辿り着くのです。
お肉屋さんに着くと、店主のおじさんが、巾着袋からお金を取り出し、紫色の風呂敷にコロッケかウズラの玉子フライを数個包んで、それをコロの首に結わえつけました。
そうすると、コロはもと来た道を引き返して行くのでした。
アタシは人間の子供ですから、コロのような訳にはゆきません。自分の背丈よりも高いガラス棚の向こうにむかって「くださいな〜。」と叫ばなければなりませんでした。そして、頼まれたのは、コロと同じコロッケやウズラの玉子フライでしたが、何を何個欲しいのかを正確に伝えなければなりませんでしたし、ちゃんとお金を渡してお釣りも間違いなく受け取らなければ、ヘマをやらかしたら、もう一度お使いに出される事もあったので必死でした。
そして、揚げたてのコロッケ等を持ち帰る時に限って、お腹を空かせた野良犬に追いかけられる可能性が高まるので、正に、行きはヨイヨイ帰りはコワイと速足になるわけですが、前には、のちのちと歩くコロがいるので、追い抜く勇気もありませんでした。
コロが自分の家に着くと、飼い主のおばさんが入り口に待っていて、首に結わえられた風呂敷を外していました。 アタシはそれを遠巻きに見届けてから家に帰りました。
揚げたてのコロッケはごちそうでした。コロは犬だから、アタシよりも数千倍の嗅覚でごちそうの匂いを嗅ぎながら、それでも決して帰り道に貪り食べるような事はしなかったのですから、本当に偉かったと思います。
アタシの動物恐怖症は45歳まで続き、1度も犬に触れるたことはありませんでした。それがたった1日でパズーを飼うことに決めたのは何故なのか、自分でも説明出来ません。
アタシが生まれて初めて抱っこした犬がパズーなのです。
どんなに可愛がっても、パズーがコロみたいにお使いに行ってくれる事は無いでしょう。コロはお使いのお駄賃として、あのコロッケの半分くらいは貰っていたはずだと思いますし、それ以上のご褒美を貰っても良いくらいに利口な犬でした。 パズーと暮らすようになって、アタシはコロを思い出す事が多くなりました。 今のアタシがコロを見掛けたら、並んでコロッケを買いに行けるのにと思います。揚げたてのコロッケを、帰り道に半分こして食べるかもしれません。

※コロが本当にお使いが出来るほどに利口な犬だったかどうかを疑問に思った事も何度もありましたが、誠実でおとなしかったコロの記憶は、間違いでは無かったと確信しています。近所には、人が通る度に吠えたてる犬を飼っていたお宅もあり、場所も覚えています。アタシは、コロが吠えているのを1度も聞いた記憶が無いのです。

2015年3月8日日曜日

カブちゃんの思い出

アタシが小学校に入学した時、校舎は木造2階建てで、サッシではなくガラス窓、机も椅子も木製でした。
1年2組、40人弱のクラスです。
買ってもらったランドセルは朱赤で、1年生は、交通安全の黄色いカバーをつける事になっていたので、アタシは、カバーで朱赤が見えなくなってしまうのを残念に思いました。 身体が小さかったからなのか、席は一番前の廊下側。そして、隣の席になったのがカブちゃんという男の子でした。
カブちゃんは、他の子とは違っていました。 小児麻痺で身体に障害があったのです。
歩くのも不自由だったし、話す言葉もはっきり解りませんでした。アタシは、正直なところ、カブちゃんが怖かったです。その当時、学校には特殊学級というクラスがありましたが、カブちゃんは特殊学級の子供達よりもずっと出来る事が少なかったから、他のクラスメートもあまりカブちゃんに近づこうとはしませんでした。自分の事でさえ精一杯の毎日で、どう接したら良いのかなんて考える余裕もありませんでした。
クラスは、席が近い6人が班を作っていて、掃除や給食など、班長さんと一緒に協力する決まりになっていました。
カブちゃんは、一人で体操着に着替える事も出来なくて、毎日の給食を取りに行ったりも出来ず、班の人が順番で手伝っていました。
ある日、カブちゃんは、給食のお盆をひっくり返してしまいました。 隣にいたアタシは、雑巾で机や床を拭いたり、カブちゃんの汚れた服を着替える手伝いをしなければなりませんでした。そんな毎日を過ごしながら、夏休みになり、そして2学期に入ると、アタシとカブちゃんの席は離れて班も別になりました。
暑さが過ぎ去った頃に運動会がありました。カブちゃんはフォークダンスにだけ参加しました。男女が輪を作り、音楽に合わせてダンスをしていると、手を繋ぐ男子が一人ずつずれていくのです。アタシはダンス入場の時にカブちゃんと手を繋ぐ事になりました。カブちゃんも身体が小さかったから。 カブちゃんの手をしっかり握れませんでしたが、指がとても冷たかったのを覚えています。
運動会が終わったある日、母は言いました。「今日学校が終わったら、カブちゃんちに遊びに行って来なさいよ。お母さんがおいでって言ってたからさ。」と。
カブちゃんのお家は、アタシのアパートから柳通りを越えて、いくつ目かの路地を曲がった裏道にありました。何段かの石段を昇ると、木の外扉があって、その奥に平屋のお家が建っていました。
カブちゃんは一人っ子でした。初めて会うカブちゃんのお母さんは、痩せて小柄だけれど、とても明るい感じの人でした。
食卓の椅子に座らせてもらい、向かい側にカブちゃんが座りました。テーブルにはオレンジジュースや果物やお菓子が並んでいました。
カブちゃんのお母さんは、「たくさん食べてね。」と言って、アタシにストローを渡してくれました。
それからカブちゃんのお母さんは、自分もジュースを飲みながら「運動会でお手て繋いでくれてありがとうね。この子は生まれてすぐに病気になってしまって、それが治らない病気だってお医者さんに言われたのよ。おばちゃんね、死んじゃうんじゃないかって思った事もあったんだけどさ、退院して学校にも入れたから嬉しいの…」
カブちゃんのお母さんはたくさん話をしました。そして、皆には解らないかもしれないけど、カブちゃんは嬉しかったり悲しかったり、色々な気持ちがあって、お家ではそれをゆっくりゆっくり話すんだと言っていました。 夕方近くになり、カブちゃんのお母さんは、テーブルに余っていたお菓子を紙にくるりと包んでアタシにくれました。それから、アタシを外玄関の所までおくってくれました。「遊びに来てくれてありがとうね。」 そう言って手を振ってくれました。緊張から解き放たれたアタシが振り返ると、お母さんの横でカブちゃんが顔をクシャクシャにして笑っていました。
2年生になった日に、カブちゃんは学校に来ませんでした。担任の安部先生が皆なに言いました。
「カブちゃんは、ちょっと遠い別の学校に行く事になりました。春休みにお母さんと学校に来て、クラスの皆にありがとうって伝えて下さいって言ってたよ。お手紙もらったから日直さんは壁に貼ってね。」
壁に貼られた紙には 大きさの違うひらがなで ありがとう と書かれていました。
アタシは半分ホッとして、後の半分はモヤモヤした気持ちがしたのを覚えています。
木造校舎は取り壊されて、生徒は中庭に建てられたプレハブに移りました。アタシは6年生になる年に転校して、それから地元の中学に進学しました。その間、カブちゃんの事を思い出す事はありませんでした。 そして高校受験に落ちまくり、ドン底の気持ちで滑り止めの私立女子高に入学したのが15歳。1年生で入ったクラスの隣には、カブちゃんと同じ小児麻痺の女の子が座っていました。
女の子の名前は思い出せませんが、登下校の時には、壁に手をついてゆっくりゆっくり歩いていました。どうしても追い越してしまう事になるのですが、すれ違う時に バイバイと言うと、顔をクシャクシャにして バイバイと返事をしてくれました。
身体や知的障害を持つ人との接し方は、実は今の歳になってもわかりません。ですが、大小姉さん達の母親になって、障害のある子供を持った親御さんは、どんなに大変でどれ程切ないかというような事を身に染みて感じるようになりました。 幸いにして、大小姉さん二人は健康に恵まれて生まれて来ましたしたが、それでも子育ては泣き笑いの連続でした。アタシは教育熱心な親にはなれず、むしろ、大小姉さん達にはいつも早く寝ろ早く寝ろと言って育てました。 とにかく元気であればそれが一番と思っています。
カブちゃんは多分、養護学校に転校したのだと思います。その為にはお家を引っ越したかもしれません。
小児麻痺は完治しないそうですが、カブちゃんだけではなくて、苦労を重ねて相当のお歳になっているはずのお母さんも、何処かで小さな幸せを見つけていたら良いなと思っています。

※小児麻痺は、ポリオワクチンの投与によって日本では根絶されたそうですが、世界の中ではまだ発症する国があって、根絶に向けた取り組みがされているそうです。
子供のようなパズーが、完治しないテンカンや甲状腺の病持ちなだけでヘコタレているアタシなんかでは、到底カブちゃんのお母さんみたいには出来なかったろうとも思っています。

2015年3月4日水曜日

モモコ先生の思い出

アタシが幼稚園に入園したのは昭和41年4月です。その頃の幼稚園は2年制で、今みたいに年少組が無かったけれど、アタシは3月早生まれなので年中組の中でもとてもチビでした。 (幼少期の1年の差はかなりなもんです。)
年子の風来坊兄が既に通っていたし、幼馴染みのJちゃんも一緒だったし、当たり前のように通園が始まりましたが、今振り返ると、登園も帰りも親や先生の付き添いなど無くて、4才〜6才くらいの子供達が、ドングリ道や菜の花畑、はたまた他人さまのお宅の庭を通り抜けたりしながら通園していたのですから驚きです。幼稚園の制服は、私服の上にベージュのスモック、帽子はえんじ色で鞄は黄色。夏服は記憶にありません。
アタシが年中で、人生で初めて先生と呼ぶことになった人、それがモモコ先生です。
髪をフンワリと内巻きにして、毎日違う素敵なスカートやブラウスを着ていて、決して怒ったりせず、世の中にこんなに優しい人がいるなんて…モモコ先生がお母さんだったら良いのにと思うほどでした。(母はアタシを含め3人の子育てが大変で、よくヒスを起こしていました。大人になってから聞いたのですが、イライラが溜まった時にはお風呂場に行って、バスタオルを噛み千切って発散したそうです。歯が折れるくらいに。小さなアタシは、実際に母がお風呂場でタオルをくわえてキィーーッと叫んでいるのを目撃しています。アタシが出産した際には、イライラしたらタオルを噛めと教えられました。)アタシはモモコ先生が、アタシのことを一番可愛がって欲しいと思っていたので、幼い頭で色々な作戦を考える毎日でした。
幼稚園入園時に、グリーンのお道具箱が配られました。中には12色のクレヨンや折り紙、ハサミやチューブの糊などが入っていて、全てに名前を書くようになっていました。
そのクレヨンは、お絵描きをして小さくなって使えなくなると、その色だけ貰える事になっていました。顔の絵を描くと、ぎゅうぎゅうと肌色で塗りつぶし、髪の毛の黒もモッサリ描いて、アタシはクレヨンを早く減らす事に夢中でした。何故なら、新しいクレヨンを貰うのは自己申告制で、モモコ先生と一緒に、幼稚園の廊下を歩いて園長先生の部屋の前を通り抜け、画用紙やクレヨンが保管されたお部屋に行くのです。そして、「また沢山お絵描きをしてね。」と優しく真新しいクレヨンを渡されるのです。実は、モモコ先生を独占出来る時間はもう1つありました。それは お漏らし です。 トイレを我慢してお漏らししてしまうと、モモコ先生が着替え部屋に連れていってくれて、新しいパンツをはかせてくれて、お漏らししたパンツを持ち帰る為のビニール袋に入れてくれるわけです。
アタシは、このお漏らしでのモモコ先生独占率が、他の子供より多かったのです。ですけれど、お漏らし独占には恥ずかしさが伴うので、尚更クレヨンを減らす事に執着しました。そしてとうとう、半分位になったクレヨンを、幼稚園の窓から、裏手に建っていたお豆腐屋さんの庭に投げ捨てるというあるまじき行為にまで発展していったのでした。
ある日アタシは、新しく買ってもらった白いブラウスを着て登園しました。その木綿のブラウスのまるい衿には、カタツムリが刺繍されていました。幼稚園に着くやいなや、「モモコ先生〜。ほら、カタツムリのブラウス買ってもらったの。」と、見せに行きました。モモコ先生は、「かわいいね。幼稚園のお庭にもカタツムリいるから探してね」と言って、アタシのスカートの肩紐がずり落ちそうなのを直してくれました。その時、モモコ先生の指に、キラキラ光る指輪がはめられていることに気付きました。
アタシの父は貴金属装身具を造る仕事をしていました。 ですから、アタシは小さい時から、光る宝石や真珠、磨く前の金や、製作途中のブローチ等を見ていました。
アタシは母に、モモコ先生がユビヤ(指輪)をしてたよと話しました。母は、それはどんなユビヤだったかと聞いたので、アタシはモモコ先生のユビヤがどんなにキラキラしていたか話しました。
兄が小学1年生になり、アタシは年長さんになりました。
モモコ先生は幼稚園の先生を辞めて、それから1度も会う事はありませんでした。
モモコ先生はお嫁に行ったと聞かされました。そしてアタシのクレヨンへの執着も無くなりました。
アタシがファッションに関わる仕事を生業とするようになったのは、決して目指したからではありませんけれど、モモコ先生をはじめ、幼い時代に素敵だと思い憧れるような大人の女性が何人もいた事の影響が大きいと思います。 勉強嫌いで、キョロキョロと惹かれる物や人ばかり見ていましたから。
モモコ先生の名前は桃子だったはずだと、漢字を覚えるようになってから考えました。指にはめられていたのはダイヤモンドの婚約指輪だったのでしょう。この季節に、お花屋さんの店先に桃や色とりどりの花が並ぶと、12色のクレヨンと桃子先生の優しい笑顔を思い出すのです。
当時二十歳くらいだったでしょうから、今は古希を迎えられるご年齢かな。 桃子先生、お元気でいらっしゃいますか? アタシがクレヨンを捨てていたことをご存じだったのではありませんか?
まとわりついていたアタシは、案外と世話好きな大人になり、先生が着ていらしたような綺麗な生地の洋服を作る仕事をしています。

2015年2月28日土曜日

青山さんの思い出

青山さんは、アタシが小学1年生になったばかりの春に、住んでいたアパートの一番奥の角部屋に引っ越して来ました。その部屋には、同じ歳で一緒に幼稚園に通った幼馴染みのJちゃん家族が住んでいて、アタシはJちゃんが引っ越した後にも同じくらいの女の子が住むようになれば良いなぁと思っていましたが、青山さんは結婚したばかりの新婚さんで、まだ子供はいなかったんです。
旦那さまがどんな人だったのかは全く記憶にないけれど、奥さんは色白で髪を短くしていて、いつも眼鏡をかけたスラッと背の高い人でした。
顔を会わせるとにこやかに話しかけてくれて、アタシが2年生になる頃には、部屋に入れてくれて綺麗な花柄のカップで紅茶をごちそうになったり、クリームシチューに使うホワイトソースの作り方を教えてくれたりしました。
その頃のアタシは、学校から帰ると、子供用の割烹着みたいなのを着て、お使いにも行ったし、台所で手伝いもしたし、毎週火曜日には、名店センター(東横のれん街みたいな)のビルの3階にあった手芸用品のお店に通い、おばあさんや母親くらいの人達に混じって編み物を習ったりもしていました。
何を作るか決めるのは母で、材料の毛糸などを買うと母は帰って行き、アタシは教えられた通りに次々と作品を仕上げて行きました。 そんなある日、母は言いました。「青山さんのうちに赤ちゃんが生まれるんだって。」と。 青山さんのお腹はどんどん大きくなって、暫く姿を見かけなくなった後に、小さな小さな赤ちゃんを抱っこして帰って来ました。赤ちゃんは女の子で菊子ちゃんという名前でした。 そして、パーマ屋さんに行く数時間、家で菊子ちゃんを預かる事になったんです。 菊子ちゃんは泣き声ひとつあげずに眠っていました。
家には、とにかく泣いて泣いて泣きまくる妹(タコヤキさ)が居たので、泣かない赤ちゃんを不思議に思いました。母も少し心配そうな様子でした。
その夜の事です。アパートに救急車が来ました。アタシは翌日になって初めて、昼間スヤスヤ眠っていた菊子ちゃんが死んでしまった事を聞かされたのです。 菊子ちゃんは、生まれながらに脳に障害があったそうです。 アタシは本物の赤ちゃんと同じ大きさのケメコという赤ちゃん人形を大切に育てていたから、菊子ちゃんが死んでしまった事にショックを受けました。だって、もしもアタシのケメコが居なくなったらと考えるだけで涙がこぼれるくらいだったから。
青山さんを見かける機会が少くなりました。冬が近づいて来たある日、本当に久しぶりに青山さんが声をかけて来ました。「おばちゃんね、毛糸の長いマフラーが欲しいの。真っ白の毛糸で編んでくれる?ね?お母さんにも頼んでおくからお願いね。」
アタシは何度もうなずきました。
それは本当の注文で、母は毛糸の代金を預かったからと言って、一緒に名店センターに行きました。アタシはちょうど、タコヤキちゃんのクリーム色のマフラーを仕上げたばかりで、青山さんのは同じ編み方でもっと長くして、両端はポンポンじゃなくてフリンジにする事になりました。 何日かかったのかは覚えていないのですが、真っ白で長いマフラーが出来上がりました。 「自分で青山さんに届けてきなさいね。」と言われ、アタシはきれいにたたんだマフラーを毛糸が入っていたビニール袋に入れて、青山さんのドアをトントンと叩きました。
青山さんはとても喜んで、以前みたいに笑顔になって、それからアタシの割烹着のポケットに500円札を入れてくれたんです。
母に渡したら、「お駄賃なんだから、それで好きな色の毛糸を買いなさいよ。」と言いました。(後日真っ赤な毛糸を買いました)
冬の間に見かけた青山さんは、いつもアタシが編んだ白いマフラーを巻いていましたが、3年生になる春に、15分くらい離れた別のアパートに引っ越して行きました。
それからずいぶん経って、駅の近くで青山さんとバッタリ会ったんです。
青山さんは大きな乳母車を押していました。
双子の女の子が生まれたそうです。
そして幸せそうでした。
青山さんのマフラーが、お駄賃をいただいて作った初めての物で、それから市販のルーではなくてホワイトソース使ったグラタンやシチューを覚えて、青山さんは色白だったし、預かった菊子ちゃんは白いベビードレスを着ていて、季節は冬。
白い思い出です。
青山さんはきっとお元気でしょう。双子ちゃんは40代かな。
みんな菊子ちゃんの事も覚えているはずだと思います。

※お駄賃で買った赤い毛糸は、同じのをなん玉か買い足してもらって、金色のボタンが付いた自分のベストを編みました。

2015年2月24日火曜日

並木さんの思い出

並木さんは、10才まで住んでいたアパートの右隣に住んでいた、今で言う 事実婚 のご夫婦です。夫婦と言ってもかなり年齢差があり、奥さんは40代半ば、旦那様は30代前半だったんじゃないかと思います。
このアパートは2階建てで、全部で8世帯でした。 大家さんの養女にあたるNさんは、今では80になりましたが、数年前までは渋谷に来てくださっていて、その娘のM子ちゃんもお客さまなんです。
並木さんご夫婦は、駅のガード下でスナックを経営していました。奥さんがママ、旦那さんがバーテンさんです。 他の住民と違っていたのは、夕方出勤して朝方に帰って来る事でした。昼間は寝ているので、アタシ達子供は、両親から「並木さんが寝てるから部屋で騒いだり走り回っちゃイケナイよ」と常々言われていました。
なかなか会う機会は無かったけれど、ちょうど夕飯の仕度を始める頃に並木さんは活動を開始するので、暗くなりかけた夕方に顔を合わせる事がありました。 奥さんは髪にエンジ色のカーラーを巻いていて、その上から網のネットを被っていました。旦那様は、色が白くて、男前で、黒いスーツ姿は俳優さんみたいだとアタシは思っていました。そして、出掛ける時の奥さんは、独特なお化粧をして、不思議な香りがする香水をつけていました。 アタシは、ごくたまにしか会わなかったし話も少しだけだったけれど、並木さんご夫婦がなんとなく好きでした。 (大人になってから考えると、職業からくる色気みたいなもんに惹かれてたようなきがするね)
そして、並木さんの旦那様は、クリスマスイブの夕方に、毎年必ず、当時家では買うことが無かったバタークリームのデコレーションケーキと、銀色の厚紙で出来たとても大きな長靴にイッパイお菓子が詰まったプレゼントをくれたんです。 生クリームのケーキが無かった時代だったし、ケーキをホールで買う家も少なかったんじゃないかな。 それはワクワクするくらい楽しみで、だけど、「今年もくれるかな?」なんて事を言っちゃいけない、ただひたすら届くのを待つ出来事でした。母は、クリスマスには鶏の骨付き股肉を焼いたのをお肉屋さんで買ってくれたけれど、決してケーキは買わなかったから、やっぱり期待していたような気がします。
並木さんのお家は昼夜が逆転していたから、アタシがまだ夢の中にいるような時間に洗濯機の音がしたし、駐車場に面した狭い庭で洗濯を干す気配もありました。 だから、隣の我が家に、1年のお礼を込めたプレゼントだったのかもしれないね。今でも、賃貸住宅では水商売の方の入居を嫌がるオーナーさんがいっぱいいるでしょ?当時は今よりもずっと、素人と玄人の境目がはっきりしていました。(今は並木さんの奥さんみたいなメイクを素人さんがしてるしね。) 五月荘を引っ越す事が決まった時、アタシは、もうクリスマスのデコレーションケーキは食べられなくなるんだなぁと思いながら、母から頼まれた回覧板を、並木さんのお宅のドアにかけて、心の中でサヨナラを言いました。
バタークリームは、ラードなどを混ぜた安いクリームで甘いスポンジケーキをコーティングしてあって、その後生クリームが出回るようになってから姿を消しましたが、最近の昭和ブームで復活しているそう。
ネットで買えるそうなので、誕生日に注文してみるつもりです。
並木さんはお元気かな。旦那さんがご健在ならば、白髪の粋なバーテンダーになってレトロなバーなんかやってるかもしれない。

※昭和40年代前半、サラリーマンの月給は2万台だったんだよ。亡父は祖父の会社の後継ぎだったので、当時3万6千円貰っていたそう。家賃は1万2千円でした。それから経済が高度成長期に入り、実家が10年暮らしたアパートを引き払い、当時やっと建設が始まったマンションを買うことになったんです。3LDKで82平米。広かったね。夜な夜な、両親が毎月5万のローンを15年払えるかを話し合ってました。 マンションは980万。 完済して、一戸建てに住み替えて行くお宅が多かった気がします。
バブルが来るずっと前の話だよ。 バブルがハジケテ、買った住宅(つまり土地価格)の値段が買った時より下がる事態になり、住み替えるどころか、借金が残っちゃうから売れないという事態になったんです。土地は値上がりするっていう土地神話の崩壊だね。
真面目にコツコツ働いていれば、歳を重ねた時に、ある程度の生活が出来る時代でした。ちなみに、アタシの時代はもうバブル弾けた後ですので、ローンの完済はおろか、住み替えなんて完全に無理ってことになりますね。

2015年2月20日金曜日

よう子ちゃんの思い出

よう子ちゃんは、アタシが10歳まで暮らしていた五月荘というアパートの左隣に住んでいました。同じ歳なのに、目がクリンとおっきくて背も高くて、少しお姉さんみたいな感じで、お父さんはキッチリ七三に分けた髪型に眼鏡の真面目そうな人で、お母さんは小柄だけど、いつも綺麗にお化粧をしていました。
母と名店センター(東横のれん街みたいな)へ佃煮を買いに行った時に、「ほら、ここがよう子ちゃんのママのスナックよ」と教えてもらって、アタシはスナックってのが何屋かは分からなかったけれど、中が見えそうで見えない紫色の硝子のドアと、そこに白い文字で書かれた エンジェル というお店の名前をよく記憶しています。
よう子ちゃんの部屋からは、度々お父さんとお母さんが喧嘩をする怒鳴り声が聞こえてきて、大抵はガラスが割れる音や何かが倒れるような音も聞こえたので、そんな日の翌日は、よう子ちゃんが無事かどうかが気になって仕方ありませんでした。(いつもニコニコ何事も無かった様子だったけどね)
よう子ちゃんとは外で遊ぶ事が多かったんだけれど、1度だけ部屋に入れてもらった事がありました。それは寒い年末で、うちと同じ二間の間取りの中は雑然としていて、見上げるほど立派な段飾りのお雛様があって驚きましたが、お人形はひっくり返ったり畳に落ちたりしていました。
そして、よう子ちゃんは秘密の鍵を持っていて、ごくたまに、アパートから5分くらいの所にある別のアパートへ連れて行ってくれたのです。そこは狭いお部屋が1つあって、その部屋の殆どが大きなベッドで占められていたので、アタシとよう子ちゃんは、そのベッドでトランポリンみたいに飛び跳ねる遊びをしてから、またそっとドアに鍵をかけて家に帰りました。
母にその部屋の事を話したら「ふ〜ん。あんたその部屋の事をよう子ちゃんのお父さんに言っちゃだめよ。」と言われました。(母は遊びに行く事はダメとは言わなくて、むしろ楽しそうでした。(つまり好奇心旺盛だったんだよね、今思えばさ)
ある日、小さなトラックがやって来て、よう子ちゃんの部屋から荷物を運び出し始めました。その翌日から、よう子ちゃんは居なくなってしまったのです。居なくなったのはよう子ちゃんとお母さんで、お父さんはそのまんま住んでいました。
よう子ちゃんは何処へ行っちゃったのか、母は知っていたようなんですが、詳しくは教えてもらえませんでした。 一人暮らしになったよう子ちゃんのお父さんは、たまたま顔を合わせるとアタシに三角のチーズをくれました。そして、「夜ご飯のおかずにタクアンを炒めるんだよ」とか、「「おじさんね、セーターを洗ったらこんなにちっちゃくなっちゃったんだよ」と言いながら、ホンマかいな!?ってなくらいに縮んだセーターを見せてくれました。 アタシは生まれて初めて、切ないって気持ちを味わったんです。
それから1年くらいしたら、七三分けのよう子ちゃんのお父さんには、新しい奥さんが来ました。子供心に、きっと喧嘩の声が聞こえなくなるなぁって思うくらいお似合いの奥さんでした。
よう子ちゃんは成績が良かったんです。後で、私立の有名な女子校に行ったと聞きました。
何となく、アタシはよう子ちゃんはお医者さんになったんじゃないかなと思っています。 そう思う理由は、よう子ちゃんの家庭教師交通事故事件というのがあったからなんです。
よう子ちゃんの家庭教師は若い女性でした。 週に何日か通ってきていました。その家庭教師の女性は、勉強が終わると、よう子ちゃんのお母さんの知り合いである男性が車で家まで送りとどけていたそうです。多分、スナックエンジェルの従業員。その時に交通事故にあい、フロントガラスの破片が顔や身体に刺さって重傷を負いました。その事をよう子ちゃんはとても悲しそうに話してくれました。退院後は家庭教師をやめて、イトーヨーカドーの屋上でソフトクリームを売る仕事をしていると聞きました。アタシはある日、イトーヨーカドーの屋上に行ってみたのです。パラソルが広がった一角にソフトクリーム屋さんがあって、アタシはバニラチョコを注文しました。 手渡してくれたのは確かによう子ちゃんの家庭教師をしていた女性で、顔に無数の傷が残っていました。だからアタシはそのソフトクリームの味も覚えていないどころか、帰りに大切にしていたピンクのがま口まで無くすほどショックを受けました。 よう子ちゃんは、やっぱりお医者さんになったんじゃ
ないかって思っているわけなんです。

2015年2月19日木曜日

鈴木先生の思い出

小学校は2年毎にクラス替えと担任が替わり、1年2年ととても怖い女性の先生だったので、アタシは3年生で初老(多分50代半ば)の男の先生になった時にはとても嬉しかった。鈴木先生はごま塩頭で太っちょで、穏やかで優しい先生だったんだけど、糖尿病を患っていて、教壇には必ず角砂糖と蓋がコップになる水差しが置かれていました。当時は、この角砂糖と水が鈴木先生の病気とどんな関係があるのか解らなかったけれど、既にお節介な性格が際立っていたアタシは、毎日水を取り替えて、角砂糖の在庫確認を怠らなかったんです。 ある日の休み時間、鈴木先生はアタシを呼んで「肩を揉んでくれ〜」と言いました。 アタシはその頃、父の肩揉み30分と、白髪抜き1本1円っていう小遣い稼ぎをしていたので、肩揉みはオチャノコサイサイ。
鈴木先生も、気持ちが良かったらしく、アタシは徐々に生徒から鈴木先生の付き人みたいな存在になっていきました。
しまいには、授業中も、教壇に座っている鈴木先生の後ろに立ち、肩を揉み、角砂糖を口に放り込み、水を飲ませたりと立ち働くようになったんです。
鈴木先生が黒板に何か書くときは、他の生徒の邪魔にならない位置に行き、先生が椅子に戻ると、アタシもまたサーッと後ろに戻り肩揉み。
母に、そんな役割を担っている事を報告したら、母は「あら〜良かったじゃない」と言いました。
そういう積み重ねが効を奏したのか、アタシは5年生のクラス替えでも鈴木先生のクラスになりました。
現代だったら有り得ないかもしれないけどね。誰も異議申し立てをする人は居なかったんです。
こんな事を書くと、まるでアタシが全く勉強をしなかったようにおもわれちゃうよね。事実、成績はいつも真ん中辺りを上がり下がりしていました。しかしです。
鈴木先生は、必ず日記の宿題を出す先生で、日記とは言っても、何を書いても良いということになっていて、提出しない生徒が大半でも、怒られたりはしませんでした。
アタシは、何を書いても良いってところと、提出すると必ず赤ペンで何かが書き添えられて返されるのが気に入って、作文や詩や日記のような物を書いて提出していました。
5年生になったころ、鈴木先生はアタシに言いました。「このあいだのナメクジって詩が良いから5年生代表で市に出すぞ」って。
ナメクジという詩の内容は、アタシの母方の祖父が晩酌の際に、よくイカの塩辛を食べていて(祖父だけに出されていました)、あれはどんな味がする食べ物なんだろうと思い聞いてみたら、祖父は「これはなぁ、ナメクジの漬けもんだ。不味いぞ」と答えて、アタシはとても驚いて、大人になっても塩辛を食べない…というような内容の詩だったんです。 そして ナメクジ は入選しました。
その後、鈴木先生は教師であり俳人でもある事がわかり、先生が俳句の本を出したと聞いて、アタシは本屋さんに探しに行きました。アタシは、鈴木先生が書いた本の中に、毎日肩揉みをする生徒の事が書かれているかもしれないと思ったんです。 俳句の本は難しくて理解不能でしたが、 中に一句、記憶に残っているものがあります。
それは、校庭に立つウラジロの大木が風に吹かれると、まるで可愛い子供たちが白い歯を見せて笑っているようだ といった内容の俳句です。
可愛い子供たちの中の一人がアタシなんだと思いました。
アタシは6年生進級を期に引っ越しをして転校しましたが、鈴木先生は「たくさん読んで沢山書けよ」と言ってくれました。
こんなふうに毎日ブログを更新出来るくらい書くのが苦にならないのは、鈴木先生のお陰だと感謝しています。 先生はその後、何校かを転勤して退職された後、数年して他界されたそうです。
最期に角砂糖を食べたかなと懐かしく思い出します。

2015年2月17日火曜日

アケちゃんの思い出

アケちゃんは、一緒にバレエを習っていたお友達でした。途中でやめてしまったけれど。 アタシはある日、母に言われてアケちゃんのお宅に遊びに行きました。 アタシの家は6畳二間のアパートで、寝る時には押入れが寝床になるような状態で、座卓が置かれた部屋の柱には、ネズミが出入りする小さな穴まで開いていたんです。昭和40代では珍しくもない事でした。
指定された時間にアケちゃんのお家に着きました。大きなドアがある一戸建てで、玄関を入ると目の前に2階に続くお城みたいな階段がありました。
アケちゃんの部屋は2階の右側で、真っ白な壁には色々なタレントのポスターが貼ってありました。 廊下に面したトイレは、婦人用と殿方用に分かれていて、まるでデパートみたいだと思いました。 どんな遊びをしたのかは全く覚えていないんだけれど、ノックの後にドアが開いて、白いエプロンをした女性が「おやつの時間ですよ〜」と入って来ました。アタシはその時、イチゴのショートケーキかもしれない!とワクワクしたのですが、テーブルに乗せられたのは…ナイフとフォークがついたバナナだったんです。
その時の衝撃は今も忘れる事が出来ません。だって、アタシはバナナをお猿さんみたいに食べていたから(今だってね)。
アケちゃんは、ナイフとフォークを使って見事にバナナを食べていました。アタシは「今はお腹が空いてないの」と言いました。
何年かして、アケちゃんは私立の中学校に行ったと聞きました。 更に数年後、アタシは高校生になっていて、町のイトーヨーカドーでフラフラ寄り道をしていました。
その時、突然名前を呼ばれて振り返りました。 アタシを呼んだのはアケちゃんでした。髪にウェーブがかかっていて、大人と同じお化粧をしていました。 その時の衝撃も忘れる事が出来ません。
あとで聞いた話しでは、アケちゃんは高校を途中でやめて結婚したそうです。
母に聞いたところ、「ほら、お正月にしめ縄飾るでしょ?あれを作る親分さんと結婚したのよ、アケちゃんは。」だそう。
今なら、オレンジの頭でアタシが衝撃を与えられるんじゃないかと思っています。

秋祭りも雨

渋谷金王八幡宮大祭 19日と20日の2日間で、街は準備中です。 天気予報は100%雨。 このお祭りの祭囃子を怖がっていたパズーを思い出すんだよね。 地震も台風や雷もさほど怖がらなかったのに、何故か祭囃子の音色が聞こえると丸まっていました。 台風25号接...