2015年4月1日水曜日

祖母の思い出増子編

大抵の子供には身近に両親が居て、それぞれの実家には祖父母が存在しています。
アタシの場合も、住まいから徒歩圏内に両親の実家があり、二人の祖父と祖母が居ました。 全員が元気に揃っていたのは小学校の5年生までですが。
50代に入ってから、アタシは身体的に父方の要素が強く、更に、父方の祖母によく似ていると自覚するようになりました。どちらもお祖母ちゃんと呼んでいて、お祖母ちゃんの名前を知ったのはずいぶん大きくなってからです。今でこそ、家々の表札には、家族のフルネームを書いてあるお宅が珍しくなくなりましたが、アタシが子供の頃は、表札には苗字だけ、或いは、世帯主だけが書かれている事の方が一般的でした。
父方の祖母は、増子と言う名前でした。

祖母は、とても小柄で、髪はほぼ白髪で、それを一束に結って頭の下の方に小さなお団子にしてまとめていました。普段は地味な着物に白い木綿の割烹着姿でした。
どちらかと言うと口数が少なく、明るい印象の人ではありませんでした。
祖父が台東区の鴬谷で、装身具製作所を営んでいた事もあり、父方の実家は、当時にしては裕福な部類に入っていたと思います。 平屋でしたが、間口の広い玄関があり、廊下の先には板の間の台所。廊下の右にふた間続きの和室があって、左側には、狭いけれど、ピアノが置かれた洋間もありました。 庭も、木製の物置小屋があって、ムベやナツメの木等が植えられていました。
アタシの父が長男、二歳違いの長女(叔母健在)、更には、父と17歳離れて産まれた次男(叔父健在)がいて、アタシが幼かった頃、まだ叔父は高校生でしたので、よく黒い学生服姿を見かけたものでした。 祖父には、数人のお妾さんが居て(鴬谷の仕事場が二号さんのお宅でした。)、週末にしか帰って来ませんでした。それは身内の皆なが知っていましたが、とやかくいう人はいなかったのです。祖母は毎月、それぞれのお妾さん宛に生活費を仕送る為に郵便局に行っていました。今のようにATMなどありませんでしたから、仕送りでも小包でも、最寄りの郵便局を利用することが一般的だったのです。
アタシの母は、アタシが小学校の高学年になるまでは専業主婦でしたので、週に1度か2度、父の実家に家事を手伝いに通っていました。 何故ならば、祖母は身体に無数の傷痕があり、腕が不自由だったからです。その傷の事は、口に出しては聞けないくらいの痛々しさでした。後に聞いたところによりますと、若い時分に破傷風にかかり、生死の境をさ迷ったそうです。その時に、下町の腕の良いお医者さんが手術をして命を救ってくれたと聞いています。 アタシは時々、祖母の家に預けられる事がありました。祖母は、黙々と家事をこなし、くたびれると和室にあった火鉢の傍に座って、煙管にキュキュッと刻み煙草を詰めて一服していました。そして、カンカンと灰を落として、また立ち上がりました。アタシが興味深げに見ていると、缶の中からお煎餅を一、二枚取り出して、火鉢の網に乗せてくれました。その姿は小粋で、どこか玄人の風情がありました。母方の祖母は、子供相手に朗らかに笑ったり喋ったりしていましたが、此方の祖母は、淡々としていて、アタシはそ
の姿を眺めている時間の方が長かったと記憶しています。祖母は、サボテンを育てる事と、日陰の苔を育てる事が趣味でした。サボテンは、庭の覗き込めるくらいに低い温室の中に整然と並べられていて、昼間はつっかえ棒で蓋を開けて陽を当て、夕方にはつっかえ棒をしまって蓋を閉じます。子供のアタシには、このトゲトゲのあるサボテンを育てる楽しみを理解する事が出来ませんでした。広い庭に花壇でも作って、色とりどりの花を咲かせる植物を植えたら良いのにとさえ思っていました。庭の垣根の向こう側がお寺さんで、植え込みの間から墓石が見えていたからでもあります。墓地の前を通る時には、親指を隠せと言われていて、それは、親の死に目に会えないからという理由でしたが、子供のアタシには、親の死に目に会えないという意味もよく解らず、それでも墓地の前を通る時にはギュッと親指を隠して速足になったものです。祖母の庭では、いつも手をグーの状態に握りしめているわけにも行かず、どうしたものやら気がかりでした。それでも、サボテンや苔は、祖母の大切な物
だと知っていましたので、アタシはその作業を手伝いもしましたし、庭を歩く時には、祖母のえんじの鼻緒の下駄をつっかけて、苔を踏まないように気を付けながら、飛び石の上を歩くようにしていました。庭側から見える縁の下には、沢山の植木鉢が並べてありました。祖母との会話は多くはありませんでしたが、アタシが、「どうしてタンスに布をかけてあるのぉ?」と聞けば、桐の箪笥について詳しく説明をしてくれて、黒ずんだら削り直す事も出来ると教えてくれました。かけてある布は油箪(ゆたん)といって、桐のタンスを保護する為だと教えられました。「あれはなーに?」と、衣紋掛けにかかった黄土色の着物を指差せば、それは丹前(たんぜん)と言って、お祖父ちゃんが浴衣の上に羽織る物で、中には真綿が入っていて温かいのだと説明しながら、綿がヘタって来たから打ち直さないといけないと言っていました。お祖父ちゃんは秋田(皆瀬村)の出だから寒がりなんだと、その時は少し笑顔を見せてくれました。 アタシに、真っ白なレース糸をく
れて、レース編みを教えてくれたのも祖母です。同じモチーフを何枚も編めたら、それを全部繋げてピアノのカバーにするんだと言っていました。ピアノは叔父の為のものでした。
祖母は、アタシが、四年生の時に病気になり、順天堂大学病院に入院しました(虎ノ門病院だったかもしれません)。お見舞いに行くと、祖母はますます小さくなった身体をベッドに横たえ、「痛い痛い」と言って苦痛に顔を歪めていました。骨ガンが全身に転移していたのです。 枕元に、バファリンの箱が積まれていました。(この入院の際に、大学病院の先生方が、祖母の破傷風の手術痕を視るために集まり、その見事な技術に驚きの声が上がったと聞いています。) それが、アタシが祖母に会った最期でした。
大人になってから、当時はモルヒネ等の痛みの治療が進歩しておらず、とにかくバファリンを飲ませるしかなかったと聞きました。また、祖母の最後の言葉が 「お父さんは?お父さんは?」だったと知りました。祖父の事です。祖父が顔を見せると、大きく目を見開いて祖父の姿を追い、それから静かに息を引き取ったそうです。
祖母は若い頃、髪結いとして、粋な姐さん達の髪を結う仕事をしていて、とても腕が良く、増子さんの島田(日本髪の結い方)は、上手いからと指名が掛かる評判だったそうです。また、出身は結城で、結城紬を織る旗の音を聞いて育った事も知りました。
祖母にとって、30を越えてから産んだ叔父は大層可愛い存在だったようでした。アタシの父も叔父を溺愛していました。父が今の東京芸大の前身の上野美術学校で造形を学んでいた頃、留守番中に、まだ子供だった叔父が大怪我を負いました。長く薬を服用する必要がある程の後遺症が残りました。そのような事があったせいか、祖母の死から数年後に祖父が他界した時に、本来は長男である父が継ぐべき家の相続を放棄して叔父に継がせたのは、父の弟への並々ならぬ愛情でもあったし、また、祖母の意思を尊重したからだと聞いています。 祖父が、本妻である祖母をどう思っていたかは判りません。でも、記憶の中では、ピアノのある洋間には、祖父が軍服を着た姿が立派な羽子板になって飾られていて、それが収められたガラスのケースはいつもピカピカに磨かれていましたし、また、祖父が居るお正月には、祖母がいつもと違って嬉しそうな様子でしたから、祖母にとっての祖父は、かけがえの無い大きな存在だった事は間違いないと思うのです。 男の甲斐性とはいえ、祖
父は何人ものお妾さんを囲っていたわけですから、祖母は寂しさや辛さを耐えていた筈です。 その心の内を想うと、胸が詰まります。
アタシは祖母の桐箪笥、三味線を形見分けしてもらい、随分長く使っていましたが、今はありません。背丈が小さいから合うだろうという理由で、数枚の着物も受け継ぎました。着古した夏の単物は処分してしまいましたが、手元に残っている木綿の久留米絣一枚を大切にしています。洗い晒しの素朴な風合いの着物です。
様々な事情があり、叔父や叔母とは疎遠になってしまいましたが、増子お祖母ちゃんは、アタシが現在、和の仕事にも携わっている原点だと思っています。 父方の実家は、特に祖父が居る時には、職人さんの出入りも多く、決して居心地の良い場所ではありませんでした。ですが、祖母の人生を思い返しますと、当時の女性の悲哀のようなものを感じますし、顔付きが似てきた自分を不思議に思いつつ、あの家も庭も温室も、なだらかな曲線で日陰を覆っていた苔さえも、とても懐かしい原風景として浮かんで来るのです。
祖母は、いつ花咲くとも判らないサボテンや、日陰の苔の中に、どんな美の世界を見ていたのでしょう。
腰が曲がった小さな身体と、不自由だった右腕をさすっていた様子、時には粋に煙管をくわえた姿を思い出しますと、 明治、大正、昭和を生きた祖母の強さと共に、辛抱という二文字が浮かんで来るのです。 我慢の先には不平不満が充満するが、辛抱の先には希望があると、ものの本で読んだ事があります。 幼かったアタシにはトゲばかりが印象に残っておりますが、もしかしたらあのサボテンは、何年かに一度であったとしても、鮮烈な色の花を咲かせていたのかもしれません。

追記※
父方の祖父については、その近寄りがたい風貌と、秋田なまりで言葉が聞き取りにくかった事、また、初孫である兄を可愛がっていた等の事情で、書き留める思い出が浮かびません。
祖母が他界した2年後の、アタシが小学6年生の夏に、喉頭ガンが肝臓に転移して亡くなりました。 戦後の日本が復興していった時代に、一代で貴金属装身具の会社を立ち上げ、業界の初代会長を務めたと聞いています。 港区芝の増上寺で執り行われた葬儀には、服部時計店(現在のセイコー)社長、田中貴金属の社長などが弔問に訪れ、周辺は黒塗りの車で埋め尽くされました。跡を継いだ父が喪主でしたが、アタシも母も延々と続く焼香の列を見守って居ました。末席には、お妾さん方の姿もあり、箱根から駆け付けて来たという女性は、身内さえも知らない方だったそうです。元々、美術の道を進みたかった父と祖父の間には確執があり、父は、祖父が他界した後にどんどん仕事を縮小して職人さんを独立させ、母の他界を期に廃業しました。ですが、仕事の依頼は残り、結局はアタシが、今の仕事の中の1つの業務として、細々と3代目を受け継ぐ形となりました。かなりのご高齢となりました職人さんから、今でも賀状などをいただいています。

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