昭和48年、アタシはそれまで住んでいたアパートから、82世帯が入居していた新築のマンションに引っ越しました。6年生での転校でしたが、近辺には次々と共同住宅が建築されていた時期だったこともあり、その年の転校生は相当の人数で、アタシが入ったクラスにも、同じマンションから3人、他にも2人の転校生がいました。 6年間の小学校生活の中でも、この1年間はとても楽しい年でした。
アタシは小柄で、整列すればいつも一番前か二番目でしたが、6年生の間に急に背が伸びて、二学期だけは真ん中辺りになりました(当時148センチ39キロですから、ほぼ成長が止まった年齢です)。 クラスは皆な仲が良く、大学を卒業したばかりの男性担任(残念な事に、後に逮捕されてしまいました)
もやる気に満ち溢れた活気のあるクラスでした。マンションのすぐ近くに小学校がありましたが、学区が違っていたために入れず、アタシ達マンションの子供は、片道40分の通学時間がかかる学区の小学校に入りました。その通学路の中間地点辺りに、ミヨちゃんは住んでいました。
ミヨちゃんは、髪が長くほっそりしていて、整った顔立ちの美人さんでしたが、口数が少なく大人しい女の子でした。ミヨちゃんは学校を休む事が度々ありました。だから、渡さなければならないプリント等を、同じ通学路を使っている友達が届ける事になります。
学校が終わっても、校庭で遊んでいる生徒がたくさんいましたが、アタシは一目散に帰る方だったので、よくミヨちゃんの家にノートやプリントを届けました。 ミヨちゃんのお家は曇りガラスが嵌まった引き戸の玄関で、それは祖父母の家もそうだったので珍しくはありませんでしたが、1歩玄関の中に入ると、殆ど人の気配がなく、出てくるのもミヨちゃん本人だったので、お父さんもお母さんも仕事をしているのかなと思いました。
6年生ともなると、其々の家庭の暮らしぶりに違いがある事くらいは解っていました。
ミヨちゃんは、給食費や学級費の集金日に封筒を持って来ないことが多かったし、それよりももっと気になったのは、寒い冬でもコートを着ていなかった事です。ひと冬の間、薄手の紺の上着で過ごしていました。卒業式の日には、皆なが新しいワンピースやスーツを着ていて、アタシもモスグリーンのワンピースに紺のブレザーを新調してもらったのですが、ミヨちゃんはいつものスカートにいつもの上着姿で、在校生につけてもらう赤い花飾りだけが、唯一卒業生らしく衿元を飾っていました。アタシもミヨちゃんも同じ中学校に進学しました。そして、3年生の時に、再び同じクラスになりました。ミヨちゃんは中学校でも休みがちでした。1週間以上登校しない事も珍しくありませんでした。中学は10分程の距離でしたが、アタシは時々遠回りをして、ミヨちゃんの家の前を通りました。家は静まりかえっていて、誰も住んでいないような感じさえしました。三学期に入り、皆が高校受験で忙しくなり、アタシも卒業の事で頭が一杯になりました。今とは違って子供の数が多く、高校浪人
という言葉が聞かれる時代でした。卒業式の間近になって、ミヨちゃんは高校へは行かずに、看護婦さんになるための学校に進む事を知りました。
アタシがミヨちゃんと再会したのは、19歳の時です。アタシは高校卒業と同時に東京で独り暮らしをしていました。母が胃潰瘍で入院したと連絡があり、地元の病院に向かう途中だったと記憶しています。
向こうから歩いて来たのは、艶やかな黒髪を1束にまとめて、薄くお化粧をして、細身の丈が長い黒いコートを着て、以前よりも更に綺麗になったミヨちゃんでした。
ミヨちゃんはアタシを覚えていてくれました。
「私、看護婦になったの。准看護婦だけど、今は隔離病棟で働いてるんだよ」と話してくれました。 「隔離病棟って?」と尋ねましたら、人に移ると危険な結核みたいな病気の人が入院してる病棟で、普通の病棟よりもお給料がたくさんもらえるんだと説明してくれました。 6年生になった頃からミヨちゃんの両親は帰って来ない日が増えて、小さな弟と二人きりの日が何日も続く事も度々で、食べる物が無かった日や、何日もお風呂に入れない事もあって、寒い冬でも、ストーブの灯油さえ無い日が続いていたそうです。給食のパンを持ち帰って、夕飯にした事もあったそうです。その後、弟さんは施設に入り、ミヨちゃんは奨学金で看護婦さんになる学校に通い、再会した時には、病院の寮で暮らしながら、夜は正看護婦になる学校に通っているとの事でした。
「弟は高校に入れたから、お小遣い送ってるんだよ。寮はご飯が出るから、今はお給料で新しい洋服も買えるの。このコートも自分で買ったんだよ。白を勧められたんだけど、なんとなく黒にしたの。あの頃は皆が羨ましかったよ。中学は制服だったから良かったけど、でも授業にはついていけなかったんだよね。」と言ってサラサラと笑いました。
いつも同じ服を着ていて、冬でもコートすら無かった理由を、アタシは何年も経ってから知ったわけです。
守られた中での暮らししか知らなかったアタシには、ミヨちゃんの話しになんと答えたら良いかさえ判らずに、看護婦さんの帽子を被っているの?とか、危険な病気がミヨちゃんに移ったりしないの?などと、そんな質問ばかりした記憶があります。
自分の身を立てるだけではなくて、弟さんに仕送りまでしながら働いているミヨちゃんが、アタシよりもずっとずっと大人に見えました。ミヨちゃんの美しさは、目鼻立ちが整っているからだけではなくて、置かれた境遇が与えたガラスのように壊れそうな美しさだったと思います。再会した時に感じた美しさは、ガラスに鉛を加えて強度を増したクリスタルのようでした。ミヨちゃんに与えられた鉛は、重く苦しいものだったはずですが、そのしなやかで透明感のある美しさは、真冬の1枚のコートよりもずっと暖かく、ミヨちゃんの人生を守ってくれたのではないかと思います。
その再会以来、ミヨちゃんと会うことはありませんでした。1度だけ出席した同窓会でも、ミヨちゃんの消息を知っている人は居ませんでした。だけどミヨちゃんは今でもきっと、親身に患者さんに寄り添う優秀な看護士さんとして、どこかの病院で働いているような気がしています。物が溢れる今の時代の中で、つましさを忘れずに暮らしているに違いないと思っています。
手元のアルバムに、6年生の遠足の記念写真が1枚だけ残っています。それは同じ班の6人が映っているのですが、皆が笑顔でカメラを見ている中で、アタシの隣に立っているミヨちゃんだけが、カメラとは違う遠くの方を見ている写真です。
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