6年生になる時に引っ越したマンションには、同じクラスに転校する事になった友達が二人いて、その一人が10階の部屋のそうちゃんという男の子でした。そうちゃんは野球選手になるのが夢で、いつも頭を丸刈りにしていました。野球選手になる事は、そうちゃんの家族の夢でもあったようで、毎日夕方から夜にかけて、お父さんとトレーニングをしていました。
アタシの家は4階の東南角部屋で、東側の窓から下を見下ろすと、そうちゃんとお父さんがトレーニングしている姿を見る事が出来ました。トレーニングは、楽しげなキャッチボールのようなものではなくて、テレビでやっていた巨人の星という漫画の主人公の星 飛雄馬のようにキビシイものでした。 腰にロープを巻き付けて、そのロープの先には大きなタイヤが結び付けられていて、そうちゃんは、そのタイヤを引きずって、汗にまみれて走っていました。 マンションの回りを何周も走ったり、お父さんが投げるボールを追いかけたりするのは、毎日休む事なく暗くなるまで続くので、近辺の人は皆が知っていました。
学校でのそうちゃんは、寡黙で目立つ存在ではありませんでした。 他の男子生徒と悪ふざけをするような様子もありませんでした。 ある日、クラスの男の子がそうちゃんをからかった事がきっかけで、その男の子とそうちゃんが喧嘩になりました。取っ組み合いで、誰かが先生を呼びに行く程の大喧嘩でした。
かけつけた先生は、クラスの皆に、机と椅子を片付けるように指示をして、それから「一対一でとことん戦え!気が済むまでやれ〜」と二人に言いました。喧嘩を止めなかったのです。(今だったら、親が怒鳴り込んで来るでしょうし、学校側の責任問題にも発展するかもしれません。)
広くなった教室の真ん中で、二人は殴り合いになり、鼻血が出たり唇が切れたりして、アタシもクラスのみんなも、誰一人、声も出ないくらいの凄まじさでした。 そのうち、そうちゃんをからかった男の子が立てなくなりました。何度か立ち上がろうとしましたが、それでも立つ事が出来ませんでした。アタシは先生が止めに入るはずだと思いました。その時、顔が腫れて血まみれのそうちゃんが、床に倒れ込んでいた男の子に近付いて、男の子を起こしたのです。そして、なんとか立ち上がった男の子に右手を差し出しました。男の子も右手を差し出し、二人は握手を交わしました。その後、そうちゃんは、男の子の肩をポンポンと2回叩きました。 クラスの皆から拍手が沸き起こりました。
アタシも思わず拍手をしました。運動が苦手で、野球の事なんか全然解りませんでしたが、そうちゃんは、ただ体を鍛えているだけではなくて、スポーツマンシップと言うのでしょうか、正々堂々と闘い、負けた相手にも敬意を表するというような精神をも学んでいるんだなと感心しました。 だから、きっとプロの野球選手になる夢が叶うはずだと思いましたし、 夕方にタイヤが擦れる音が聞こえると、頑張れと応援するような気持ちになったのです。
82世帯のマンションでは、毎年代わりばんこに世帯から5人の人がマンション管理に携わる理事をしていて、時々会合を開いていました。 このマンションは、管理を住民が行う自主管理体制をとっていて、よく回覧板が回って来ました。
ある日の回覧板に 「○月○日1階駐車場にて バザーを行います」 といった内容が書かれていました。
アタシは、幼稚園で行われたバザーを思い出しました。タオルやエプロン、可愛い縫いぐるみなどが家々から集められて、お母さん達が焼きそばやお汁粉なども売っていました。それらは、お小遣いで買える位に安くて、ワクワクする楽しさでしたから、同じようなバザーが1階で開催されるなら、アタシも手作りの小物を売ってみたいと思ったのです。 「うちも何かバザーに出すの?」と聞きましたら、母は言いました。 「そういうバザーじゃないんだって。そうちゃんちのお父さんの会社が倒産してね、引っ越さなくちゃならなくなったらしいのよ。それで理事会で相談して、そうちゃんちの家具とかを住民で買ってあげるバザーなんだって。」
そうちゃんのお父さんは貿易の会社を経営していたそうですが、その会社が無くなってしまったんだと説明されたアタシは、とても驚きました。百科事典を引っ張り出して、倒産という言葉を調べて、更に驚き、これからそうちゃんの家族がどうなるのか、野球選手になるというそうちゃんの夢は消えてしまうのかと、心配で堪らなくなりました。
アタシは、バザーには行きませんでした。行ってみたい気持ちもありましたけれど、そこにそうちゃんが居たら、真っ直ぐに顔を見る事が出来ないと思ったからです。
週末の2日間行われたバザーでは、沢山のマンション住民の他に、近所からも人が来て、出された物は完売したと聞きました。このバザーは、今で言うオークション形式で、一番高い値段をつけた人が買う事が出来て、募金もたくさん集まったそうです。その売上金と募金は全てそうちゃんの家に渡されたと聞きました。
そうちゃんのお父さんは「家族の為にも、協力して下さった皆様の為にも、必ず逆転勝ちします。」と、深く一礼をされたと聞きました。そして、そうちゃん家族は引っ越して行きました。
アタシは、その話を聞いて少し安心しました。強い家族だから、きっと大丈夫だと思いました。
数年後、そうちゃんは、地元の野球の名門、上尾高校に入った事を風の噂で知りました。 昨年、テレビで社会人野球を題材にしたドラマをやっていて、運動音痴のアタシにも面白く見る事が出来ました。負けて負けて負けまくっていても、本当に大逆転が有りうるんだと知りました。そしてふと、そうちゃんの事を思い出しました。今は、インターネットの普及で、様々な方法で過去の出来事や、懐かしい人を探す事が出来ますが、アタシは思い出となった過去を呼び戻す事には抵抗があります。ですが、そうちゃんについては、野球を続けているはずだという確信のようなものがあり、プロ野球の選手を検索してみましたが、そうちゃんの名前は見当たりませんでした。そうちゃんが在学中だった時代に、上尾高校は甲子園にも出場出来なかったようでした。パソコンを落とそうとした時に、野球好きの人達が集まり雑談しているサイトを見付けました。野球には、プロ野球の他にも社会人野球など、色々な活躍の場があるらしい事を知りました。そして、そのサイトの書き込みの中に、
各都道府県にも様々な野球チームがあるという一文がありました。更に読み進んでみましたら、地元のシニア野球チームの監督欄に、そうちゃんのフルネームが記されていました。プロ野球選手とも交流がある名監督だと書かれていました。そうちゃんのお父さんは逆転勝ちして、そうちゃんも野球人生を歩んでいることが判り、アタシは40数年前の事を懐かしく思い出しています。
追記※ 通常のマンショでは、管理会社がマンション管理を行っています。実家だったマンションでは、施工会社が管理を行うはずでしたが倒産してしまい、住民の投票によって、住民独自の自主管理体制が決まりました。 住民同士の交流企画の中には、夏に屋上で花火を観賞する集いですとか、ゴルフ愛好会等もありました。アタシの父が役員になった年に、新たな管理人さんを探す事になりました。マンションの管理室は居住出来るようになっていましたので住み込みです。 父は、国道の向こう側にあったスーパーマーケットの裏を根城にしていたホームレスの男性の身元引き受け人になり、その男性を管理人として雇用しました。
こざっぱりと身なりを整えた男性は、大変評判の良い管理人さんとなりました。
父との同居が決まった20年くらい前に、実家マンションは売却してしまいましたが、築40年を越えた今でも、チームワークの良い自主管理が続いてるそうです。
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