小学校入学で、アタシは1年2組になりました。担任は阿部先生という女の先生で、いつもキリッとしたスーツを着ていて、眼鏡も左右がつり上がった形だったせいか、とても怖く感じました。入学してしばらくした図工の時間に、細い竹の棒を使って紙の鯉のぼりを作る事になりました。その竹の棒が余って、阿部先生はいつも片手にそれを持ち、黒板の字を指すのも、誰かに問題を答えさせる時も、その竹の棒を使っていたので、アタシには竹の棒が鞭のように見えました。
いたずらっ子は、よく廊下に立たされたりもしました。青という漢字が書けずに、アタシは居残りをさせられまた。(この居残りは屈辱的な記憶として残っていて、人に何かを教える立場の人がどうあるべきかを考えるきっかけになりました。)この1年2組に、しんちゃんが居ました。 しんちゃんは特別に目立つ男の子ではありませんでしたが、アタシの母方の実家の隣がしんちゃんのお家だったのです。祖父母の家には庭がありました。玄関脇に、ポポーと言う果物がなる木があって、アタシはよくポポーを食べさせてもらいました(ポポーを聞いたことが無い方も多いかと思いますが、アタシは5〜6年前にネットで見つけて取り寄せました。それまではポーポと記憶していました。) 玄関から東に向かって細い通路があり、右側は盆栽が並んでいました。通路を抜けると小さな池のある庭に出ます。決して広い庭ではありませんでしたが、柿の木が植えられていました。その柿の木にハシゴが掛けられていると、アタシは落っこちないように気を付けながら登
りました。(母が子供の頃、この柿の木の実を取ろうとして、枝ごと落ちたと聞かされていましたから) 柿の実をもぐためではなくて、しんちゃんのお家が見たかったからです。
しんちゃんのお家の庭は、光るような緑の芝生が広がっていて、そこには真っ白なブランコもありましたし、滑り台もありました。全速力で走り回れるくらいに広かったのです。芝生の庭の奥にあったお家も白くて、近辺の木造住宅とは全く趣が違い、外国のお家のようでした。幼稚園時代に、テレビでブーフーウーと言う人形劇をやっていました。子豚の3兄弟それぞれが、わらの家、木の家、石の家をつくり、わらと木の家は狼に吹き飛ばされてしまうのですが、丈夫な石の家は狼に負けなかったので、アタシはしんちゃんの白いお家は多分、石の強い家だろうと思いました。アタシは、ハシゴの上から、しんちゃんのお家や庭を見るのが好きでした。時々、その芝生の庭にしんちゃんが走り出てきて、向かい合って座れるブランコで遊び始めたりすると、アタシは見つからないようにそっとハシゴから下りました。そして、もう少し眺めていたかったのにという残念な気持ちと、覗いている自分を恥ずかしいと思ったりもしました。しんちゃんのお父さんは、仕事で外国に行く事もあるらしく
、祖父は隣の坊っちゃんと呼んでいました。
しんちゃんは、皆と同じ給食を美味しそうに食べていましたが、しんちゃんの外国みたいなお家や庭を知っていたアタシは、もしかしたらしんちゃんは、お家では外国みたいなご飯を食べているかもしれないと考えたりしました。朝御飯は、卵かけや納豆や焼き海苔じゃなくて、パンと紅茶なんじゃないかとも想像していました。
とにかくアタシは、自分からしんちゃんに話しかけることは無かったし、しんちゃんから話しかけられた事も無かったと思います。
2年生になった夏休みの事です。 その頃には、家に黒い電話や四本脚のテレビなどが揃っていました。母が電話に出て、「本当なの!!」と大きな声を出して、しばらく話してから電話を切り、アタシの方を振り返って言ったのです。「しんちゃんのお母さんが亡くなったんだって。お母さん行かなくちゃならないからね。」と。 その電話は、多分、クラスの連絡網だったのだと思います。
母は夕方には黒の洋服に着替えて出掛けて行きました。
6〜7歳でも、死んでしまうということがどれだけ大きな出来事かは知っていました。
兄が捕まえて来たカブトムシだって、金魚だって、死んでしまえば動かなくなりましたし、、ハエ捕りリボン(ハエを捕まえる粘着シートで、室内にぶら下げてありました)に張り付いたハエだって、クモの巣に引っ掛かった昆虫だって、みんな死んでしまえば甦る事はありませんでしたから。
アタシがお祖母ちゃんと呼んでいた母方の祖母は、祖父の後添えさんで、母を育てたお祖母ちゃんは、兄が産まれて直ぐの頃に死んでしまったと聞かされていました。御不浄(トイレ)で倒れていたそうです。その時、どれだけ驚いて悲しかったかを、母は時々話していました。(この時に亡くなったお祖母ちゃんも、実は養母だったということを後に知りました)
生きている命が亡くなるという出来事には悲しみが伴う事も漠然と解っていましたから、アタシは、同じ歳のしんちゃんが、お母さんが死んでしまった事でどれだけの涙を流して泣いているかを考えると、心臓がバクバクと音を立てて胸が苦しくなりました。夏休みが終わってから、しんちゃんが1学期と同じように学校に来られるんだろうかとか、悲しくて病気になったりはしないだろうかなどと、様々なことを考えました。
しんちゃんのお母さんは家事以外にも仕事をしていて忙しく、毎日夕方遅くに帰って来ていたそうです。亡くなった日も同じで、家族で夕飯を食べてからお風呂に入ったのですが、いつまでたってもお風呂から上がって来なかったので、しんちゃんがお風呂に見に行ったら倒れていたのだと聞きました。
その出来事があった後も、アタシは夏休みの間に何回か祖父母の家に行きましたが、ハシゴに登ってはいけないような気がしていました。悲しい事があったお宅を、眺めるのが好きだなどという理由で見てはいけないと思ったからです。
夏休みが終わりに近付いたある日、アタシは祖父に工作の宿題を手伝ってもらいに行きました。その日に祖父が「坊っちゃんちを見ないのか?」と言ったので、アタシはこれが最後という気持ちでハシゴを登りました。
芝生の庭にしんちゃんが居ました。しんちゃんは、長い棒の虫取り網を持って、ヒラヒラと舞う紋白蝶を追いかけていました。蝶々は網を避けて舞い翔び、しんちゃんに捕まる事はありませんでした。それでもしんちゃんは、蝶々を追っていました。 その一心不乱な姿が目に焼き付いて忘れる事が出来ません。 1年か2年経った頃、しんちゃんに新しいお母さんが出来た事を知りました。アタシは良かったとは思えませんでした。しんちゃんのお母さんは、死んでしまったお母さん一人だとも思った記憶があります。
幼かったしんちゃんがどれ程大きな別れの悲しみを経験したかという事をアタシが心底解ったのは、それから22年経って、母を亡くした時でした。
子供の頃の記憶には、楽しかった事よりも、驚きや悲しみ、恐怖を感じた思い出が多いような気がします。それは、遊んだり笑い転げたりする楽しい時間が、子供時代のアタシの当たり前の日常だったからなのだと思います。
アタシはずっと、あの晩夏の日、しんちゃんのお母さんが蝶々になって、しんちゃんと戯れ、我が子を励ましていたような気がしてなりませんでした。
40を過ぎた頃、俳句を趣味になさっている和裁士のAさんから、「蝶々は春の季語だけれど、死者の化身だとか、霊の象徴としても使われるんだよ」と教えていただき、改めてその想いを強くする事となったのです。
もしかしたらしんちゃんも、蝶々を見る度に、同じような事を思い出しながら今を生きているのではないかと感じています。
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