2015年2月28日土曜日

青山さんの思い出

青山さんは、アタシが小学1年生になったばかりの春に、住んでいたアパートの一番奥の角部屋に引っ越して来ました。その部屋には、同じ歳で一緒に幼稚園に通った幼馴染みのJちゃん家族が住んでいて、アタシはJちゃんが引っ越した後にも同じくらいの女の子が住むようになれば良いなぁと思っていましたが、青山さんは結婚したばかりの新婚さんで、まだ子供はいなかったんです。
旦那さまがどんな人だったのかは全く記憶にないけれど、奥さんは色白で髪を短くしていて、いつも眼鏡をかけたスラッと背の高い人でした。
顔を会わせるとにこやかに話しかけてくれて、アタシが2年生になる頃には、部屋に入れてくれて綺麗な花柄のカップで紅茶をごちそうになったり、クリームシチューに使うホワイトソースの作り方を教えてくれたりしました。
その頃のアタシは、学校から帰ると、子供用の割烹着みたいなのを着て、お使いにも行ったし、台所で手伝いもしたし、毎週火曜日には、名店センター(東横のれん街みたいな)のビルの3階にあった手芸用品のお店に通い、おばあさんや母親くらいの人達に混じって編み物を習ったりもしていました。
何を作るか決めるのは母で、材料の毛糸などを買うと母は帰って行き、アタシは教えられた通りに次々と作品を仕上げて行きました。 そんなある日、母は言いました。「青山さんのうちに赤ちゃんが生まれるんだって。」と。 青山さんのお腹はどんどん大きくなって、暫く姿を見かけなくなった後に、小さな小さな赤ちゃんを抱っこして帰って来ました。赤ちゃんは女の子で菊子ちゃんという名前でした。 そして、パーマ屋さんに行く数時間、家で菊子ちゃんを預かる事になったんです。 菊子ちゃんは泣き声ひとつあげずに眠っていました。
家には、とにかく泣いて泣いて泣きまくる妹(タコヤキさ)が居たので、泣かない赤ちゃんを不思議に思いました。母も少し心配そうな様子でした。
その夜の事です。アパートに救急車が来ました。アタシは翌日になって初めて、昼間スヤスヤ眠っていた菊子ちゃんが死んでしまった事を聞かされたのです。 菊子ちゃんは、生まれながらに脳に障害があったそうです。 アタシは本物の赤ちゃんと同じ大きさのケメコという赤ちゃん人形を大切に育てていたから、菊子ちゃんが死んでしまった事にショックを受けました。だって、もしもアタシのケメコが居なくなったらと考えるだけで涙がこぼれるくらいだったから。
青山さんを見かける機会が少くなりました。冬が近づいて来たある日、本当に久しぶりに青山さんが声をかけて来ました。「おばちゃんね、毛糸の長いマフラーが欲しいの。真っ白の毛糸で編んでくれる?ね?お母さんにも頼んでおくからお願いね。」
アタシは何度もうなずきました。
それは本当の注文で、母は毛糸の代金を預かったからと言って、一緒に名店センターに行きました。アタシはちょうど、タコヤキちゃんのクリーム色のマフラーを仕上げたばかりで、青山さんのは同じ編み方でもっと長くして、両端はポンポンじゃなくてフリンジにする事になりました。 何日かかったのかは覚えていないのですが、真っ白で長いマフラーが出来上がりました。 「自分で青山さんに届けてきなさいね。」と言われ、アタシはきれいにたたんだマフラーを毛糸が入っていたビニール袋に入れて、青山さんのドアをトントンと叩きました。
青山さんはとても喜んで、以前みたいに笑顔になって、それからアタシの割烹着のポケットに500円札を入れてくれたんです。
母に渡したら、「お駄賃なんだから、それで好きな色の毛糸を買いなさいよ。」と言いました。(後日真っ赤な毛糸を買いました)
冬の間に見かけた青山さんは、いつもアタシが編んだ白いマフラーを巻いていましたが、3年生になる春に、15分くらい離れた別のアパートに引っ越して行きました。
それからずいぶん経って、駅の近くで青山さんとバッタリ会ったんです。
青山さんは大きな乳母車を押していました。
双子の女の子が生まれたそうです。
そして幸せそうでした。
青山さんのマフラーが、お駄賃をいただいて作った初めての物で、それから市販のルーではなくてホワイトソース使ったグラタンやシチューを覚えて、青山さんは色白だったし、預かった菊子ちゃんは白いベビードレスを着ていて、季節は冬。
白い思い出です。
青山さんはきっとお元気でしょう。双子ちゃんは40代かな。
みんな菊子ちゃんの事も覚えているはずだと思います。

※お駄賃で買った赤い毛糸は、同じのをなん玉か買い足してもらって、金色のボタンが付いた自分のベストを編みました。

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