2015年2月20日金曜日

よう子ちゃんの思い出

よう子ちゃんは、アタシが10歳まで暮らしていた五月荘というアパートの左隣に住んでいました。同じ歳なのに、目がクリンとおっきくて背も高くて、少しお姉さんみたいな感じで、お父さんはキッチリ七三に分けた髪型に眼鏡の真面目そうな人で、お母さんは小柄だけど、いつも綺麗にお化粧をしていました。
母と名店センター(東横のれん街みたいな)へ佃煮を買いに行った時に、「ほら、ここがよう子ちゃんのママのスナックよ」と教えてもらって、アタシはスナックってのが何屋かは分からなかったけれど、中が見えそうで見えない紫色の硝子のドアと、そこに白い文字で書かれた エンジェル というお店の名前をよく記憶しています。
よう子ちゃんの部屋からは、度々お父さんとお母さんが喧嘩をする怒鳴り声が聞こえてきて、大抵はガラスが割れる音や何かが倒れるような音も聞こえたので、そんな日の翌日は、よう子ちゃんが無事かどうかが気になって仕方ありませんでした。(いつもニコニコ何事も無かった様子だったけどね)
よう子ちゃんとは外で遊ぶ事が多かったんだけれど、1度だけ部屋に入れてもらった事がありました。それは寒い年末で、うちと同じ二間の間取りの中は雑然としていて、見上げるほど立派な段飾りのお雛様があって驚きましたが、お人形はひっくり返ったり畳に落ちたりしていました。
そして、よう子ちゃんは秘密の鍵を持っていて、ごくたまに、アパートから5分くらいの所にある別のアパートへ連れて行ってくれたのです。そこは狭いお部屋が1つあって、その部屋の殆どが大きなベッドで占められていたので、アタシとよう子ちゃんは、そのベッドでトランポリンみたいに飛び跳ねる遊びをしてから、またそっとドアに鍵をかけて家に帰りました。
母にその部屋の事を話したら「ふ〜ん。あんたその部屋の事をよう子ちゃんのお父さんに言っちゃだめよ。」と言われました。(母は遊びに行く事はダメとは言わなくて、むしろ楽しそうでした。(つまり好奇心旺盛だったんだよね、今思えばさ)
ある日、小さなトラックがやって来て、よう子ちゃんの部屋から荷物を運び出し始めました。その翌日から、よう子ちゃんは居なくなってしまったのです。居なくなったのはよう子ちゃんとお母さんで、お父さんはそのまんま住んでいました。
よう子ちゃんは何処へ行っちゃったのか、母は知っていたようなんですが、詳しくは教えてもらえませんでした。 一人暮らしになったよう子ちゃんのお父さんは、たまたま顔を合わせるとアタシに三角のチーズをくれました。そして、「夜ご飯のおかずにタクアンを炒めるんだよ」とか、「「おじさんね、セーターを洗ったらこんなにちっちゃくなっちゃったんだよ」と言いながら、ホンマかいな!?ってなくらいに縮んだセーターを見せてくれました。 アタシは生まれて初めて、切ないって気持ちを味わったんです。
それから1年くらいしたら、七三分けのよう子ちゃんのお父さんには、新しい奥さんが来ました。子供心に、きっと喧嘩の声が聞こえなくなるなぁって思うくらいお似合いの奥さんでした。
よう子ちゃんは成績が良かったんです。後で、私立の有名な女子校に行ったと聞きました。
何となく、アタシはよう子ちゃんはお医者さんになったんじゃないかなと思っています。 そう思う理由は、よう子ちゃんの家庭教師交通事故事件というのがあったからなんです。
よう子ちゃんの家庭教師は若い女性でした。 週に何日か通ってきていました。その家庭教師の女性は、勉強が終わると、よう子ちゃんのお母さんの知り合いである男性が車で家まで送りとどけていたそうです。多分、スナックエンジェルの従業員。その時に交通事故にあい、フロントガラスの破片が顔や身体に刺さって重傷を負いました。その事をよう子ちゃんはとても悲しそうに話してくれました。退院後は家庭教師をやめて、イトーヨーカドーの屋上でソフトクリームを売る仕事をしていると聞きました。アタシはある日、イトーヨーカドーの屋上に行ってみたのです。パラソルが広がった一角にソフトクリーム屋さんがあって、アタシはバニラチョコを注文しました。 手渡してくれたのは確かによう子ちゃんの家庭教師をしていた女性で、顔に無数の傷が残っていました。だからアタシはそのソフトクリームの味も覚えていないどころか、帰りに大切にしていたピンクのがま口まで無くすほどショックを受けました。 よう子ちゃんは、やっぱりお医者さんになったんじゃ
ないかって思っているわけなんです。

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 ヤドリギ近くのゴルフ場に、子鹿のバンビが現れたって。 痩せて見える。可愛いけど可哀想。沢山の餌が見つかりますように。