2015年2月24日火曜日

並木さんの思い出

並木さんは、10才まで住んでいたアパートの右隣に住んでいた、今で言う 事実婚 のご夫婦です。夫婦と言ってもかなり年齢差があり、奥さんは40代半ば、旦那様は30代前半だったんじゃないかと思います。
このアパートは2階建てで、全部で8世帯でした。 大家さんの養女にあたるNさんは、今では80になりましたが、数年前までは渋谷に来てくださっていて、その娘のM子ちゃんもお客さまなんです。
並木さんご夫婦は、駅のガード下でスナックを経営していました。奥さんがママ、旦那さんがバーテンさんです。 他の住民と違っていたのは、夕方出勤して朝方に帰って来る事でした。昼間は寝ているので、アタシ達子供は、両親から「並木さんが寝てるから部屋で騒いだり走り回っちゃイケナイよ」と常々言われていました。
なかなか会う機会は無かったけれど、ちょうど夕飯の仕度を始める頃に並木さんは活動を開始するので、暗くなりかけた夕方に顔を合わせる事がありました。 奥さんは髪にエンジ色のカーラーを巻いていて、その上から網のネットを被っていました。旦那様は、色が白くて、男前で、黒いスーツ姿は俳優さんみたいだとアタシは思っていました。そして、出掛ける時の奥さんは、独特なお化粧をして、不思議な香りがする香水をつけていました。 アタシは、ごくたまにしか会わなかったし話も少しだけだったけれど、並木さんご夫婦がなんとなく好きでした。 (大人になってから考えると、職業からくる色気みたいなもんに惹かれてたようなきがするね)
そして、並木さんの旦那様は、クリスマスイブの夕方に、毎年必ず、当時家では買うことが無かったバタークリームのデコレーションケーキと、銀色の厚紙で出来たとても大きな長靴にイッパイお菓子が詰まったプレゼントをくれたんです。 生クリームのケーキが無かった時代だったし、ケーキをホールで買う家も少なかったんじゃないかな。 それはワクワクするくらい楽しみで、だけど、「今年もくれるかな?」なんて事を言っちゃいけない、ただひたすら届くのを待つ出来事でした。母は、クリスマスには鶏の骨付き股肉を焼いたのをお肉屋さんで買ってくれたけれど、決してケーキは買わなかったから、やっぱり期待していたような気がします。
並木さんのお家は昼夜が逆転していたから、アタシがまだ夢の中にいるような時間に洗濯機の音がしたし、駐車場に面した狭い庭で洗濯を干す気配もありました。 だから、隣の我が家に、1年のお礼を込めたプレゼントだったのかもしれないね。今でも、賃貸住宅では水商売の方の入居を嫌がるオーナーさんがいっぱいいるでしょ?当時は今よりもずっと、素人と玄人の境目がはっきりしていました。(今は並木さんの奥さんみたいなメイクを素人さんがしてるしね。) 五月荘を引っ越す事が決まった時、アタシは、もうクリスマスのデコレーションケーキは食べられなくなるんだなぁと思いながら、母から頼まれた回覧板を、並木さんのお宅のドアにかけて、心の中でサヨナラを言いました。
バタークリームは、ラードなどを混ぜた安いクリームで甘いスポンジケーキをコーティングしてあって、その後生クリームが出回るようになってから姿を消しましたが、最近の昭和ブームで復活しているそう。
ネットで買えるそうなので、誕生日に注文してみるつもりです。
並木さんはお元気かな。旦那さんがご健在ならば、白髪の粋なバーテンダーになってレトロなバーなんかやってるかもしれない。

※昭和40年代前半、サラリーマンの月給は2万台だったんだよ。亡父は祖父の会社の後継ぎだったので、当時3万6千円貰っていたそう。家賃は1万2千円でした。それから経済が高度成長期に入り、実家が10年暮らしたアパートを引き払い、当時やっと建設が始まったマンションを買うことになったんです。3LDKで82平米。広かったね。夜な夜な、両親が毎月5万のローンを15年払えるかを話し合ってました。 マンションは980万。 完済して、一戸建てに住み替えて行くお宅が多かった気がします。
バブルが来るずっと前の話だよ。 バブルがハジケテ、買った住宅(つまり土地価格)の値段が買った時より下がる事態になり、住み替えるどころか、借金が残っちゃうから売れないという事態になったんです。土地は値上がりするっていう土地神話の崩壊だね。
真面目にコツコツ働いていれば、歳を重ねた時に、ある程度の生活が出来る時代でした。ちなみに、アタシの時代はもうバブル弾けた後ですので、ローンの完済はおろか、住み替えなんて完全に無理ってことになりますね。

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