アタシの母は、産まれて直ぐに里子に出されて育てられたので、母を引き取った育ての親が母方のお祖母ちゃんという事になりますが、そのお祖母ちゃんは、アタシが産まれる少し前に急死してしまいました。 その後すぐに、祖父に後添えさんが来ました。アタシが母方のお祖母ちゃんと呼んでいたのは、この後添えに来たお祖母ちゃんです。 清(きよ)という名前でした。
母方の実家には、祖父と、このお祖母ちゃんの連れ子である当時高校生の息子が居て、三人で暮らしていました。祖父には兄弟姉妹が多く、いつもたくさんの大人や子供が出入りしていました。特にお正月などは、うちの家族、叔母家族、他の叔父や叔母とその子供達も集まりましたので、何台か繋げて並べた座卓の回りを、15人以上の人が囲んでいました。 母の義理の妹は都内に嫁いでいましたので、普段、度々出入りしていたのは、うちの家族でした。
お祖母ちゃんが後添えに入ったいきさつは、大人になってから聞きました。祖父の妹の娘よう子叔母さんに縁談があり、その相手の男性は北海道の出身でした。今で言う親族顔合わせの際に、父親が戦死している事が判りました。お母さんと弟だけになってしまうならば、祖父が独り住まいになっていましたので、いっそのこと、北海道を出て、子連れで後添えに入ったら良かろうという話になり、よう子叔母さんと長男が結婚したと同時に、お祖母ちゃんも次男を連れて祖父の元に嫁いで来たということでした。
お祖母ちゃんには、なにぬねのの発音に、少し訛りがありました。 お祖母ちゃんはとてもよく立ち働く人でした。特に、台所仕事が得意でした。遊びに行くと、大抵、奥のお勝手で何かを作っていました。お勝手の床板が外せるようになっていて、その床下には大きな四斗樽(しとだる)の糠床がありました。アタシはこの糠床の臭いも、それを混ぜるのも好きで、よく手伝わせてもらいました。お祖母ちゃんの糠漬けは最高の味でした。他に、鮭の粕漬けも美味でした。ひと通りの御節料理をいただいた後に、香ばしく焼き上がった鮭の粕漬けでお茶漬けを食べるのは、皆なが楽しみにしていました。昆布とスルメイカが入った松前漬けもとても良い味でした。後添えさんとは言っても、幼かったアタシにとっては、物心ついた時にはお祖母ちゃんが居たので、ずっとそこで暮らして来た人と思っていましたし、周囲の親族と打ち解けて暮らしていました。アタシは、糠床の世話だけではなくて、出汁の取り方や、お魚を粕漬けにする時の味付けや、粕がこびりつかないようにガ
ーゼを使う知恵ですとか、お味噌汁にお味噌を入れるタイミングなど、台所仕事の色々をこのお祖母ちゃんから教わったのです。特に、魚のさばき方や、美味しい切り身の見分け方、昆布の選び方などは、お祖母ちゃんが北海道の出身だった事が大きく影響していると思います。お祖母ちゃんは、アタシ達兄妹をお風呂に入れてくれる事も度々ありました。お祖母ちゃんの背中の、ちょうど肩甲骨辺りに、耳の孔より少し小さい孔があいていて、アタシにはそれが不思議で仕方ありませんでした。「ねぇお祖母ちゃん、どーしてお背中に孔があいてるのぉ?」 と訊ねましたら、お祖母ちゃんは言いました。「お祖母ちゃんの背中にね、鉄砲の玉が当たったの。戦争中に走って逃げてる時にね、背中がカッと熱くなったんだけどね、走り続けたんだよ。とにかく皆が走って逃げたの。」と。「痛くないの?お風呂のお湯が入らない?」と重ねて聞くと、「お湯は入らないよ、今は痛くないんだよ。だけどね、いっぱい怪我をした人がいたから、直ぐにお医者さんに治してもらえなかったの。だか
ら今でも鉄砲の玉は中に入ったまんまなんだよ。戦争は怖いから終わって良かったね。」 お祖母ちゃんは、子供達の身体を石鹸でゴシゴシ洗いながら、そして汗をたくさんかきながら、そんな話を聞かせてくれました。
妹のタコヤキが産まれてから、お祖母ちゃんは妹を大層可愛がるようになりました。泣き虫で人見知りの激しかった妹は、お祖母ちゃんの家から数分の幼稚園に通うことになり、その送り迎えはお祖母ちゃんがやっていました。母からすれば、自分が嫁いでから来たお祖母ちゃんとは暮らした事がなかったわけですが、子育てを手助けしてくれた事で、とても助かっていたようでした。アタシは小学生になり、父方、母方の実家に行くよりも、幼馴染みのJちゃんのお宅に預けられる事が多くなりましたので、お祖母ちゃんに会うのは、お正月と年に2回、お彼岸でお墓参りに行く時くらいになってゆきました。母方のお墓は、今のホテルオークラの近くのお寺にありました。墓石をきれいにして、順番にお花とお線香を供え、子供達も手を合わせて、お祖母ちゃんは一番最後でした。それが済むと、お祖母ちゃんは手桶と花を持って、同じお寺の別のお墓の所へ行き、同じように墓石をきれいにして手を合わせていました。 子供達は、帰り際にお寺さんの奥さんに戴くお菓子が楽しみでした
ので、二つのお墓にお参りすることを気に留めてはいませんでしたが、アタシは、お祖母ちゃんが、二つ目のお墓の前で、長い時間手を合わせていた姿が目に焼き付いています。大人になってから、それは北海道から移して来たお墓で、中には、お祖母ちゃんの戦死した旦那さんが眠っていることを知りました。戦死した旦那さんは軍人さんで、お祖母ちゃんには二人の幼い息子も居たので、国から戦没者の遺族に払われる恩給を受給していたとの事でした。祖父は戦時中、零戦の部品を作る仕事をしていて、戦地には行かずに済んだそうですが、敗戦後は仕事が無くなりました。そのような状況でしたので、アタシの母は、15歳で中学を卒業すると同時に町工場に働きに出て家計を支え、結婚後は、アタシの父が、祖父に貴金属装身具製作の仕事を回して、お給料という形で援助をしていました。 そのうちに、成人して社会人になったお祖母ちゃんの次男にもお嫁さんが来て、母方の実家の庭に離れが建てられ新居となりました。それから何年も平穏な年月が流れましたが、アタシが二十
歳を過ぎて何年かした頃から、お祖母ちゃんに痴呆の症状が出始めたのです。祖父も高齢で病みがちになりました。 お祖母ちゃんの介護をしたのは、離れに居を構えた次男のお嫁さんでした。祖父が亡くなり、その1週間後に、まだ57だったアタシの母が他界しましたので、母方の実家には、痴呆のお祖母ちゃんと、その次男家族だけになりました。お嫁さんは、10年以上の介護で疲れ果てているとの事でしたが、祖父も母も亡くなった後でしたし、お祖母ちゃんの痴呆は悪化して徘徊もひどくなり、部屋に鍵をかけていると聞き、アタシの足は遠退いてしまいました。危篤の報せをうけて病院にお見舞いに行った時には、会話も出来ない状態でした。恩給を受給していた事などの事情で、祖父とお祖母ちゃんは入籍をせず、内縁関係の夫婦だったと知ったのは、お祖母ちゃんの葬儀が終わった後のことです。お祖母ちゃんの遺骨は、長く手を合わせていた方のお墓に納められたと聞いています。
元々は母の実家でしたし、その土地を買うためには、亡母のお給金が使われたので、土地や家の相続で小さな揉め事が起こりました。アタシ達三人兄妹に僅かな相続権が発生したからです。アタシ達三人は、よく解らないまま相続放棄の書類に捺印しました。アタシはその頃から、父方母方、両方の親族と疎遠になって現在に至っています。
第二次世界大戦では、東京大空襲や、広島、長崎への原爆投下の悲惨さを歴史で学ぶ事が多いのですが、終戦の1945年7月、アメリカ軍の3000機にも及ぶ戦闘機が、北海道の室蘭、釧路、根室などに無差別な空襲を行い、それは北海道空襲と呼ばれ、一般市民に多大な被害があったそうです。その空襲の時に、背に銃弾を受けながら、まだ小さかった二人の息子を抱えて逃げ惑った庶民の一人がお祖母ちゃんだったのだと考えますと、お祖母ちゃんの故郷は室蘭、釧路、根室のいずれかだったのではないかと思います。北海道空襲は、アタシが生まれる17年前の出来事です。アタシが知る限り、お祖母ちゃんは北海道に帰った事はありませんでした。 夫が戦死し、自らも負傷し、故郷を離れて見知らぬ土地に移り住むことになるなど、戦後世代のアタシには、その心中を察する事すら出来ません。
50代になった今、戦死した夫の墓前で、何を語りかけながら手を合わせていたのかと考えますと、胸が熱くなる思いと共に、悲しみを口にすることもなく、いつも明るく朗らかに笑いながら、故郷の味を作り私達にふるまってくれた事にあらためて感謝の気持ちが湧いてきます。
アタシは今でも、糠床を大切にしています。床を混ぜる度に、お祖母ちゃんの背中にあった銃弾の傷痕を思い出します。
追記※母を産み落として直ぐに里子に出した、アタシの本当の祖母にあたる人とは、母が亡くなった後に消息を調べ、会うことが出来ました。既に78歳になられていました。数回お会いした後に、また音信が途絶えています。100を越えるお歳ですので、何とか消息を知りたいと思っています。この祖母もまた、戦後未亡人なのです。
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