アタシは、産まれてからあまりミルクを飲まなかったらしく、やや栄養失調気味で、毎日ポポンSという液体のビタミン剤をスポイトで口に入れられていました。腹痛を起こす事も度々あって、木製の救急箱の中にはいつもビオフェルミンが入っていて、それを飲むのは家族の中でもアタシが一番多かったと思います。
ポポンSもビオフェルミンも、味が好きだったのが救いでしたが、虚弱のせいなのか、小さい頃から、口内炎で口の中が痛くなる事が何度となくありました。歯茎や上顎、ほっぺたの裏側や舌に出来る口内炎は、とても痛くて、ますます食べる量が減ってしまいます。 口内炎が悪化してくると、母は舌打ちをしながら、「またなの!」と言って、アタシを近くのお医者さんに連れて行きました。物心がついた頃から引っ越しをするまでは、徒歩10分ほどの所にあった 楢原医院が掛かり付けでした。楢原医院のドアを開けると、独特の消毒液のような薬剤の匂いがしました。
大人は緑色のスリッパに履きかえ、子供のスリッパは青でした。
楢原医院の待合室には、身体の中が描かれたグロテスクなポスターなどが貼ってありました。中でも、アタシが何度も顔を近付けて見たのは、便の模型標本が額に並んでいる物でした。 そこには、消化不良だとか、もっと怖い病気にかかった時に出る便が、説明書き付きで並んでいました。中には白いのもあって、それは白色便性下痢症と書かれてあり、アタシは楢原医院へ連れて行かれる度に、目が釘付けになりました。(妹のタコヤキは、この白色便性下痢症にかかってひどい目にあった事があります。)
名前を呼ばれて診察室に入ると、アタシは円くてクルクル廻る椅子に座らされました。椅子が廻るのは、お腹や胸だけではなくて、背中にも聴診器を当てるためでした。
楢原先生は、白衣の首に聴診器を下げていて、おでこには銀色の真ん中に孔が開いた円盤みたいな物を付けていました。(額帯鏡という名前だそうです。)そして、楢原先生は右手に銀色のバターナイフみたいな物を持つと、すぐに反対の手で、額の銀色の円盤を下向きにします。バターナイフみたいな物で、舌を圧されると、オェっとなるのが嫌で、アタシは圧される前に喉を大きく開ける練習を積み重ねて習得していました。日焼けしたみたいに色黒で、眉毛が濃くて、グリンとした目の楢原先生は、アタシから見ると、少し外国人のような感じでした。 楢原先生はいつも、喉が腫れてるな…とか、今度の口内炎もでかいぞ〜と、何だか嬉しそうでしたが、アタシは一刻も早く待合室の便の標本のあるベンチに戻りたいと思っていました。
でも、口内炎で診てもらう時には、大抵の場合、「焼いとくかぁ」と言われるのです。母も断らずに「焼いちゃって下さい。」と答えるものですから、アタシの恐怖は相当のものでした。
今にして思い返しますと、焼くという治療は、火で炙る訳ではなくて、薬剤で焼く治療なのですが、その鼻につく臭いのする薬がたっぷり染み込んだ脱脂綿付きの棒が口に近付いてくると、アタシはギュウッと目をつむって我慢しました。 終わって目を開けると、楢原先生の額の円盤は元の上向きに戻っていて、楢原先生は、何だかとても愉快そうに、大きな目でアタシを覗き込み、「焼いた方が早く治るんだよ。そうしたらまたたくさん食べられるさ。」と言いました。 口内炎以外でも、風邪や腹痛、おたふく風邪に水疱瘡…。何か病気にかかる度に、アタシは楢原先生のお世話になりました。診察を受ける時の楢原先生は、本当にいつもご機嫌でした。数年して、木造だった楢原医院は、コンクリートの2階建てになりました。中は大きな病院のように真っ白で、残念な事に、便の標本は無くなってしまいました。その代わり、とても美人の看護婦さんが何人か増えました。母は、「楢原医院の看護婦さんは美人揃いだよね。きっと先生が好きなタイプの人ばかり雇うんだよ」と
言っていました。確かに、看護婦さんは皆がどこか似ていて、色白でほっそりした顔立ちに切れ長の目をした女性が多かったと思います。
アタシは、楢原先生が色黒でギョロ目だから、自分と正反対の人が好きなのに違いないと思いました。
幼稚園から小学校の3年生くらいまで、年に何度も連れて行かれた楢原医院でしたが、10歳になる頃からは、風邪を引いたりすることも減って、アタシが通うのは歯医者さんくらいになりました。 5年生になった頃に、楢原医院の入り口に「院長急病の為、暫くの間休診します」と書かれた貼り紙が出されました。 アタシは、お医者さんが病気になったら、いったい誰が治療をするんだろうかと考えました。自分で喉に薬を塗ったり、自分で自分に聴診器を当てるんだろうかというような事も想像しました。 その年の夏休みに、アタシは夏バテになりました。毎日だるくて仕方がなく、久しぶりに楢原医院に行きました。保険証を持たされて、一人で行ったのです。 楢原先生の病気は治ったと聞いていましたが、先生は一回りくらい小さくなっていて、以前のように愉快そうな顔で笑ったりはしませんでした。 アタシが診察室を出ようとドアに手をかけた時、楢原先生が言いました。「もう口内炎は出来なくなったかい?」と。
それが、楢原先生に会った最後でした。
引っ越しをして、中学、高校と進む頃には、病院に行かなければならないほどの病気にはかからなくなっていました。それでも、年に1度か2度は口内炎が出来て、その度に、旧い木造の楢原医院と、白衣を着て愉快そうに治療をしてくれた楢原先生の姿を思い出します。
現在の楢原医院は、別姓の女医さんが院長先生になり同じ場所で続いています。その女医さんは、楢原先生の娘さんで、結婚して姓が変わった後も、ご夫婦で楢原医院を継いでいるそうです。
追記 ※ 口内炎は、今ではレーザーで焼く治療が主流だそうです。それから、アタシが大小姉さんを産んでから暫く居住していた川越市で、笠間医院という内科小児科に度々お世話になっていました。他にも小児科はあったのですが、笠間医院は旧い木造の建物で、待ち合い室に、あの便の標本が掛けてあったのです。なんとも言えない懐かしさと共に、白髪の先生が優しくて、不思議な安心感があって、掛かり付けに決めていました。 お医者さんという職業は、治療の腕や設備も大切だとは思いますが、身体だけではなくて、気持ちも弱くなっている患者さんに対して、安心感を与えるような人柄も重要だと今も思っています。
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