仲良きことは美しき哉
これを読んだのは、随分と子供の頃だった。
父母のどちらかが、誰かの結婚式に出席して、引き出物を持ち帰った。
当時の引き出物は豪華版で、品物の他に、折り詰め、赤飯、鯛の塩焼き、紅白の菓子など盛り沢山だった。
何かしら美味しい物にありつけるので、楽しみに待っていた。
興味は食べ物だったわけだが、その時の引き出物の品は大きな土鍋で、この土鍋の蓋に、野菜の絵と 仲良きことは美しき哉 と書かれてあったのだ。
文字が書かれた土鍋を初めて見た。
様々な本を読むようになってから、これが武者小路実篤が、晩年好んで書いた言葉だと知った。
書いてばかりいないで、たまには人が書いたブログを読んでみるかと、最近あちこち覗くのだが、たいして面白くもなく、或いは更新がストップしていて、結局はまた、書いてしまう。
そんな中で、ママ友とのあれこれを綴った女性のブログに目が止まり、遡って読んでみた。
リーダー的存在の人物がいるらしく、歯向かえない事だとか、同じママ友グループの中に、輪を乱す人が居るらしく、不平不満タラタラだ。
空気が読めないとか、でしゃばりだとか、上から目線で腹が立つとか、そういった怒りが書き連ねられていた。
それでも彼女は、3日と空けずに、そのママ友グループとお茶やらランチやらをしている様子だ。
つまり、端から見れば、仲良しママさんグループという事になるのであろう。
仲良き事の状態が、昨今は変わってしまったのではあるまいか。
この女性は、リーダーの事も、グループの人々の事も、一人として好きとは思って居ない様子だ。
何故、属して居るのだろう。
言いたいことも言えず、言われた事に腹ばかり立てているならば、さっさと抜けてしまえば簡単なのに。
自分の言葉で本音を言って、自分の耳で、相手の本音を聞く。そうしたやり取りの中で、友情と言うのだろうか、良き人間関係が作られて行くはずだ。
寄り固まっていれば仲良き事だと思ったら、それは大間違いのコンコンチキなのである。
輪を保つ事のみに神経を磨り減らし、言いたい事も、遠回しの言葉を選びえらびビクビクと言わねばならぬとは、全く奇妙な仲良きグループだ。
武者小路実篤はこうも言っている。
「君は君 我は我なり されど仲良き」
そして自身については、
[私は一個の人間でありたい
誰にも利用されない
誰にも頭を下げない
一個の人間でありたい
他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかはり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい]
こう述べている。
一個の人間としての自信がある者同士は、かなり辛辣にやりあっても、その友情は壊れない。
このような関係こそが、美しいのである。
お互いをいびつにしてしまうような関係は、美しいはずもなく、むしろ醜いと思うのである。
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