2017年7月10日月曜日

師匠


もう随分と会っていない知人から、一昨年の秋に、恩師である 宝生あやこ先生が亡くなられた事の報せが来た。
時々気にかけては居たものの、不覚であった。

若き頃に、アタシは宝生先生主宰の劇団の団員であり、また、付き人という大切な仕事をいただいていた。

在籍は4年ほどであったが、役者として学ぶ機会と、舞台に立つ貴重な経験をさせていただいた。

初めてお目にかかったのは、入団試験とも言える面接の時で、19歳だった。

他劇団の俳優養成所を卒業した後に、推薦状をいただいて稽古場に伺った。

通された部屋には、宝生先生と、当時の演出家であった  故 貫 恒実 さんが待っていて下さった。

演技の試験などを想像していたのだが、面接のみであった。
何を訊かれ答えたか全く覚えていない。

舞台には不向きな小柄な身体、客席に届かない声質に悩んでおり、
短めに切り上げられた面接では、入団は無理だろうと察して、
紹介状を書いて下さった演出家の先生に、その足でご挨拶に行った。

申し訳ない気持ちと、この先どうしたら良いだろうかと、電車に揺られながら泣きたいような心境だった。

卒業公演の稽古に励んだ稽古場に着くと、お世話下さった演出家の先生が待っていて下さった。

「良かった。たった今、宝生さん直々に電話をいただいたよ。 良い役者さんをご紹介下さりありがとうございますと仰っていた。 こことは違った路線だが、 むしろ活躍の場が広がるかもしれない。頑張りなさい。」

明くる日から、アタシは宝生先生の元で、それまでとは全く違う稽古を積み重ねる日々が始まった。

ほどなくして、全国巡演の地方公演のキャスティングが貼り出され、新人にも関わらず旅に参加。数ヵ月後には  役をいただいただけただけではなくて、宝生先生の付き人としての責務を仰せつかったのである。

女優陣にとって、付き人は登竜門であった。
テレビ局をはじめとして、同行させていただくことで、出演のチャンスを得やすいからだ。
その分、稽古以外にこなさなければならない仕事は、
先生宅の掃除から来客時の接待、
食事の仕度まで、
真夜中までかかる事もしばしばであった。
いわゆる、下積み生活だ。

活躍中の俳優さんや、交友なさっていらした力士が遊びに来られたりしていた。
楽屋参りも重要な仕事であった。

目をかけて頂き、ギャラをいただける仕事が増えた。
宝生 先生からも演出家の貫さんからも、常に一挙手一投足を観察されているような緊迫感があった。

役者という仕事は、売れるか否かである。
気立てが良いとか、明朗快活だとか、そんな事は二の次三の次なのだ。
役者、特に女優として振舞えるか、それだけの華があるか、表現者として通用するか。
いつもそういう目で見られていたような気がする。

心の迷いが消えない数年の後に、国立劇場の舞台を最期にして、
アタシは自ら 役者として生きて行く事を止めたのである。
この道で生きるという貪欲さが欠けていた。
表と裏の顔を使い分けるような度胸が無かったのだ。
いつも衣裳部屋に逃げ込んでいた。
不義理をしてしまったと思っている。

教えて頂いた事は、今でも様々な事に役立っており、
特に、一心に精進するという事の大切さが身に滲みている。

宝生先生 ありがとうございました。
演劇のみならず、舞踊、すべてにおいて師匠と思って居りました。

芸術祭での団体奨励賞受賞パーティーで、稽古場に来賓の方々がお集まりになりました時の事を鮮明に覚えております。
受付の大役を仰せつかりました私は、先生がいつ会場にいらっしゃるのかと、
はらはらしておりました。
ご自宅からお稽古場に続く渡り廊下を、先生が歩いていらっしゃいました。
灰色の綸子に、粉雪が舞うような柄の訪問着は、
演目でありました 楢山節考 最期のシーンで、
先生が降りしきる姥捨て山の雪の中で手を合わせていらした姿と重なり、
あまりにも美しい姿でございました。

ご冥福をお祈りさせていただきますと共に、心より感謝申し上げます。


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早く着き過ぎた

銀座で休憩中。 早く着き過ぎた。 しかし、なんでイッセイミヤケのバッグ、行列出来ているんだろう。