衣食住と云うが、何故この順番かと時々考える。
周囲を見回すと、食住衣といった具合の人を多く見掛ける。
温暖化や衣類のカジュアル化もあるだろうが、衣について言えば、季節感はおろか、クラッシックのコンサートだってジーンズ姿が珍しくない。
ホテルのメインダイニングでさえ、ジャケット着用と決まってはいても、中はTシャツの人さえいるのだ。
勿論、カジュアルで機能的な服装を選ぶのは決して悪いことでは無いのだが、皆が弛くなってしまったならば、本来はどんな服装をすべきなのかさえ、学べなくなってしまうと思う。
不景気の煽りを受けて、削れる物は削ろうとすれば、大概は衣類の購入を控えるか、予算を大幅に落とすだろうと思う。
しかし、人間は、素っ裸で出歩く訳には行かない。そんな事をしたら、即刻逮捕だ。
襤褸(ぼろ)を着てても心は錦 という。
しかし、この襤褸は、どうでもよいような衣類の事ではない。貧しくて(或いはなにがしかの理由があって)、真新しかったり高価な物は買えないが、そこにはそれぞれの精一杯が感ぜられる。
母さんが夜なべをして手袋を編む時代では無いが、解いた毛糸を編み直せば、それは立派な精一杯だ。
逆に、高価なブランド品を身に付けていても、頭の中はスッカラカンも見掛ける。
真冬に真夏のレースを着ている女性を見れば、その寒々しさに、見ている此方が凍てついてしまうのである。
時と場所をわきまえ、せめて素材の善し悪しくらいは知っておいて困る事は無い。
衣食住を小ざっぱりと整え、分相応を知りながら、正すべき所では襟を正す。
男でも女でも、そこに、生きる心意気というものが表れる。
要はそのバランスだ。
随筆 装 を読み始めた。
装う事もまた、食住に勝るとも劣らない物語があるのである。
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