現実を生きながら、人は内なる世界を創りあげて行くように思う。
この内なる世界は、様々な経験から拡がり、読書をしたり、映画や芝居を観たり、そのようなことの積み重ねで色付けされて行くのではあるまいか。
一枚の絵画の中の青に魅せられたり、旅先の小さな港の独特な匂いに刺激を受けたりしながら、生きている限り彩飾し続けられ、未完で終わる。
子供の頃に、課題図書を読み、感想文を提出させられた。
記憶に残る書籍は一冊も無いのである。
読むことも作文も嫌いではなかったが、そこには、選ぶ課程が欠落していた。
何日から何日間、何処其処へ、このようなルートで修学旅行に行きますと言われても、乗り気がしなかった。
与えられるべきものは最低限が良いと思う。
何を読むかの前に、本屋さんに行く事や、本を選ぶ事、行き先を決めたり変更する事、旅先で何を見るかも、自由が好ましい。
与えられた課題をこなす事に、馴染めなかった。それが、学校嫌いになった理由だと思う。
自分自身の内なる世界は、むしろ大人になり、更には歳を重ねてからの方が豊かになったと感じている。
1日30分の散歩でも、細切れにしか取れない読書の時間でも、与えられた課題をこなすよりずっと楽しめる。
同じように、例えそれが無意識であったとしても、内なる世界を持っている人との会話は楽しい。
お金持ちかどうか、何の仕事をしているか、肩書きはあるか、結婚しているか、そういった事は全く関係が無い。
むしろ、それらが無くなった時に、内なる世界は消えないことを実感出来ると考えている。
それに気付いた人は、多くを求めず、追い立てられるような忙しさからも解き放たれて、静かな眼で辺りを見回しながら、自分の歩調で進んで行けるに違いない。
どん底に居る時に、人が唯一望むのは、誰かと話をする事だ。
それは、自分の内なる世界を確認する為に、必要不可欠な作業なのである。
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