今夜も二品と一汁、沢庵。
鶏もも肉は、乱切りのきゅうり、松の実と一緒に七味でピリ辛炒めに。
火を通したきゅうりも美味しい。
副菜は切り干し大根の煮物。
切り干し大根やひじきの煮物は、子供の頃は残念メニューだった。
スパゲティーやハンバーグの中には夢があって、切り干し大根は現実だったからだ。
給食にも米飯はなくて、パサパサの食パンかコッペパンだったし、彩りの良い食卓は少なかったのである。
記憶の中の切り干し大根は、いつも煮汁に浸っていて、それが母のつくり方だった。
煮汁をポタリと垂らせば怒られるから、お膳に屈むように食べると、また姿勢が悪いと言われてしまう。
6年生になった頃は、時間があるかぎり、炊事を任されていた。
苦痛に感じた事は無くて、旧い3分クッキングの本をめくっていた。
そうしてある日、今夜のように、煮汁を煮飛ばしてしまう切り干し大根を作った。
これをひと口食べた母が、「誰に教わったの?」と訊いてきた。
ちょうどその頃、テレビドラマで割烹が舞台になっていた。板前役の俳優が、次々と料理をこしらえる手元が映されて、あらすじはちっとも興味が無かったのだが、その料理場面に釘付けになっていたのである。
本などを見ても、計量スプーンすら使わないズボラさはその頃からで、手順や盛り付けが解るドラマの方が余程興味を惹かれた。
「テレビみた」と答えた。 何となくドラマとは言わない方が良いような気がしたからだ。
ドラマの中で、男前の俳優と綺麗な女優さんが抱擁しているシーンもあったし、たまたま家族で何かの映画を観ても、ラブシーンが始まると、皆が押し黙り、兄は部屋に引っ込んでしまい、妹のタコヤキは、怪訝そうにしていた。
つまり、ビミョーな空気が流れてしまうわけだった。
だから、ドラマとは言わなかったのである。
その日から、炊事が学校よりも比重が高くなって、毎日下校した後にスーパーに走るようになった。
母の友人が訪ねてくれば、直ぐにお茶を入れて運び、茶菓子が見当たらなければ、果物を剥いて出したりもした。
今日は林檎だから、ガラスの器にしようとか、デザートフォークはシンプルに限ると思ったりしながら、まるでお手伝いさんのように立ち働いたのである。
だから、母の帰宅が遅くても、両親がフルムーン旅行に出掛けても、全く困る事は無かったのである。
年末年始の九州旅行の時には、お節弁当を詰めて持たせてやった。
食材費さえあれば、親など居ない方が気楽だったし、3兄妹は心底寛げると喜んでいたのである。
いまだに、ブログを読みながら、幼馴染みのJちゃんは涎をたらしながら昔の食卓を懐かしんでくれていて、ごくたまーに兄からメールが来れば、あのおいなりさんが食べたいと書かれていて、バンクーバーのタコヤキやモニモニも同じかもしれない。
ハウスキーパー半生記が書けてしまいそうだ。
あ~、美味しかった。
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