長年、何の専門教育も受けず、洋服やら服飾小物やら、そんな様々を作って来たが、今になって、自分がやって来た事は何だったろうかと思っている。
目の前にはどの家庭にもあるような裁縫箱が1つあるだけだった。
作らなければならないものもなく、とにかく、1台のトルソーを手に入れたのである。
トルソーは、ただの人型をした土台であり、生身の人間で言えば裸だ。
そうして、たくさんの計測の平均値で作られており、あくまでも目安だった。
試しに、自分のシャツを作って見たが、着心地が悪かった。
何故だろう?
この何故という疑問を抱いた瞬間に、目の前に白いカンバスが広がった。
そうして、作る事は創る事で、想像力と好奇心、経験が欠かせない事を学び、一番後からついてきたのが技術だった。
更に、他人の物を作るようになった頃、一番時間をかけたのが、聞く事である。欲しいものはどんな物なのかを知るための
ヒントをかき集める作業だ。
無いものを創るわけだから、相手が想うオレンジ色のドレスと、自分が想うオレンジ色のドレスが、必ずしも同じとは限らない。 オレンジという色さえも、微妙に違っているかもしれないのである。
トルソーに何種かのオレンジ色見本生地をピン留めして見せる。
室内と太陽光の下では、印象も変わる。
夕焼けのようなオレンジと希望していた人が、それを見て、淡いシャーベットオレンジを指差すということも珍しくなく、ではその中間にしましょうという平均化は皆無であった。
仮縫い辺りで見てもらうと、膝が隠れる丈の予定がもっと長め、或いは短めにと変更になり、その工程そのものも経験となった。
曖昧にしておく事が出来るならば、完成間際まで、そこは曖昧のままが良い。
曖昧にしておくという事は、想像の余地を残せる事であり、変化の可能性が開かれているからだ。
クリエーターと職人の違いは、多分この部分なのではないかと考えている。
ディオールと私 本当に良い映画だった。
若い頃に観ても、良さは解らなかったろう。
何もない所から形を創る作業は、いかに想像と工夫をする余地を残すかという事に尽きると思う。
独創的な思考と想像力が、思わぬ発見に繋がったり、意外な完成を見る事に繋がる。
人の心を繕う作業もまた、同じことなのだと思っている。
さて、今年は何を観に行こうか?
あらすじを読まず、配役も調べず、感動も期待しない方が良い。
何が始り、どんな終結を迎えるのか、誰にでも、それを楽しみたいという気持ちが備わっているのである。
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