ネギと牛蒡を買うのに、八百屋さんに立ち寄った。
街の商店での立ち話は珍しくないことだが、大して興味の無い話題に付き合わなければならないおばちゃんは、結構ストレスが溜まっている。
おばちゃんが話したいのは、天気の話でも野菜のことでもないし、町内の誰かがどうしたこうしたという事にもウンザリしているのである。
かといって、配達で飛び回っている息子では話し相手にもならないから、アタシが行くと話が止まらなくなる。
この人にならば、本音を話でも大丈夫だと思っているからだ。
何が大丈夫なのか?
家族でも町内でも、親しい友人でも、その関係に波風を立ててはいけないという 和を保つ心理が働く。
しかし、アタシとおばちゃんの間には、保たなければならない何物も無いのである。
それに、ただ聞くだけではなくて、おばちゃんは、アタシがアタシの考えを率直に述べるタイプだということを知っている。
寝たきりで入院中のおじちゃんをどうするか、1歩踏み込めば、入院費が馬鹿にならない金額であること、 早く死んでしまった方が楽なんじゃないかと思っていること、それがおばちゃんが本音で話したい事なのである。
当たり前だ。下手に延命されてしまえば、家族の負担は計り知れない。 おじちゃんだって、言葉が喋れたならば、きっとそう言うに違いないし、管に繋がれて生かされている今の状態から放たれたいと思っている。
次にヤマ場が来たら、延命は断りなねと言ったら、「そうだよね?冷たくは無いよね?誰だって嫌だよね?」そう言って、奥の調理場に走っていった。
本音を話せて、本音を聞けたお礼に、焼き立ての卵焼きと、少し葉が黄色くなったというだけで売れない三つ葉をくれた。
本来は、本音を語れる関係こそ身近な筈なのに、保たなければならない和 がそうはさせてくれない。
おかしな話だが、その和がどんな和なのか、保つ価値がある和なのか、それを語る相手がいない人の方が多いのである。
本音を聞いて、本音を返しただけで、アタシは何度もお土産をいただいてしまって、本当に恐縮している。
けれど、お土産が欲しくて本音を聞いたり話したりしている訳では無いから、恐縮しながらもいただいて来る。
お土産なんか渡さなくても、本音の付き合いが出来る人が一人でも居たならば、それは人生の宝に違いないと思っている。
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